2010年操体法東京研究会夏期集中講座(日曜午前中)のお知らせ
2010年東京操体法研究会定例講習のご案内
6月13日の行徳ゴールドジムのご案内はこちらです
先週の操体法東京研究会定例講習での話。
講習が始まって、ある程度の時間が経ってくると、受講生達も「快適感覚のききわけ」ができるようになってくる。実際、快適感覚のききわけというのは、最初からできる人もいれば、時間がかかる場合もある。それが良い悪いということではない。
早くききわけができるようになったほうが良さそうだが、実はそうとも言い切れない。というのは、最初から「快適感覚のききわけ」ができて、その後からだの無意識の動きが発動するような場合、本人自身「どこまでが動診で、どこからが操法か」わからなくなる場合があるのだ。
特に講習を行っている場合、ここまでは動診(つまり、診断・分析)、快適感覚がききわけれれたら、そこからが操法(治療)という段階を踏むのだが、その際「(からだにききわけて)きもちのよさがききわけられたら、教えて下さい」「そのきもちのよさ、味わってみたい要求を満たしてますか?からだにききわけて、教えて下さい」のように問いかけて行く。
動診は診断・分析であるから、一応は指導者の指示通りにゆっくりと動きを取らせるのである。末端からからだの中心、骨盤、全身と動きが連動し、その中で(からだにききわけて)快適感覚をききわけるのだ。そして、快適感覚のききわけが通ったら、操者は一応確認をとるのである。
「きもちのよさがききわけられたら、教えて下さい」更に、きもちよさでもからだがそんなに要求していないきもちよさもあるため、再度「からだにききわけて。そのきもちよさ、味わってみたい要求を満たしていますか?からだにききわけて教えて下さい」とといかける。そこで味わってみたいというからだの要求を確認してから、はじめて操法(治療)にうつるのである。
操法に入ってからは、きもちよさに委ねて味わうのが操法(つまり操体の治療)であるから、操者の指示とか連動に従ってではなくていいのである。操法に入ったら、それこそどんな格好でもどんな動きでも、からだの要求ときもちよさに委ねるのである。
なので、最初から「動診」の部分をすっ飛ばして操法に入ってしまう場合、『動診』の理解が甘い場合がある。つまり自分ができてしまうので(からだの無意識の動きが即起こったり、反応が出たりするので)、そうではない人の事が理解できない場合があるのだ。
というわけで、講習の途中で師匠と私が話をした。
例えば講習では、先生が「介助と動きの練習」と指導している場合、「操法」つまり快適感覚を味わうところまではやらなくていいのである。また、介助・補助・連動の練習をしているのに、「きもちよかった」という評価をするのは全くのお門違いだ。
介助・補助・連動の練習をしているのだから、介助が決まっていたとか、操者が動きについていくスピードはどうかとか、言葉の誘導とか、そのような評価をすべきなのである。
先生が「快適感覚のききわけまで通してよい」という指導があれば、味わうところまでいっていいのだ。この辺を勘違いしてはいけない。
また、指導する立場になると、いくら快適感覚をききわけていても、それを意識的にコントロールできるようになるべきなのだ。何故なら指導者が指導しながら無意識の動きとか、快に委ねてしまうと、指導にならないからである(笑)
もう一つ。いきなり「快」のモードがオンになってしまうところを初学者が見るとびっくりしてしまう。
本来は介助・補助を与えて連動を促しながら快適感覚のききわけをとらせるのに、この状態を見ると、初学者は「自分はこんなことはできない」とか悩ませてしまうことがあるのだ。
勿論、快のモードをON状態にして、からだがつけてくる無意識の動きを観察するのも勉強になるのだが、操体を学ぶだけではなく、長い目で見てこれから若手や後輩の育成に関わりたい、操体を伝えたいと思うのだったら、無意識の動きのコントロールは必須である。本当は無意識の動きが発動し、からだが動いてしまうのがスゴいのではなく、快適感覚をききわけても、それをコントロールするほうが上級テクニックなのである。