きもちよさは探さないんだってば、と言い続けていますが、先日、実行委員のメンバーから、ペップトーク の理論から言うと、言葉のインパクトで、アタマの中には「きもちよさはさがす」(肯定形ではいる)とインプットされるかも!というアドバイスがありました。
う~ん、どうやって言おう。
きもちよさは、動診を行って、きもちのよさがあるかないか、ききわける
かな?
長いな~
ちなみに、何故私が「操体においてきもちよさは探してもダメだよ」と言っているかというと、
「きもちよさをさがす」という概念でやっていると、永遠に「操体における快」は味わえない。
それはとっても勿体ない!と思うからなのです。
ちなみに、操体臨床では「主役」は誰でしょう。
それは「からだ」です。
三浦先生に「自分の動きとからだの動きは違う」と習いましたが、本当にその通りだと実感しました。
きもちよさをさがすのは、誰ですか?
「私」
そう、「私」が主語だと、きもちよさを探しちゃうんです。
大抵は「私」が主語になっています。
しかし「からだ」が主語の場合は、「からだが、その動きが快か不快かききわける」となります。
操体は、一人でやろうが操者がいようが、主役は「からだ」です。
「さがす」という方は「私」が探しているんです。
一人でやる場合にせよ、客観的に「からだ」を主役として扱う醒めた意識が必要です。
「からだの声をきく、聞き分ける」ということです。
そしてもう一つ。
操体には「動診(診断分析)」を行ってから、「操法(治療)」に入るという基本があります。第一分析でも動診を行いますよね。
ある型をからだの連動の仕組みに沿って行ってみて、その動診の中に、快適感覚があるかどうか、確認する。それが、動診(診断分析)です。
そして、きもちのよさが、からだにききわけられたら、それを味わう。それが、第二分析、乃ち快適感覚に対応した操法(治療)になります。
また「きもちよく動く」のではありません。
きもちよく動く前に、動いてみて、それが快かどうか確認する必要があります。
動いてみないと快か不快かわからないのに「きもちよく動く」なんていうのは、操体の「動診・操法」の過程を無視していることになります。
春のフォーラムでは「本当に快適感覚を味わえる操体のセルフケア」でもやろうかなと考えています。
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