操体の真実。口先だけのきもちよさでは
世の中の多くの人は、未だに「万病を治せる妙療法」が操体の実際だと思っている。特に、キャリアのある手技療法家でも、「楽なほうに動かして、瞬間急速脱力させるんでしょ」と思っている場合が多い。
操体法と言えば、膝を左右に倒すとか、足首を反らせるとか、伏臥で膝を脇のほうに引き寄せるのを思い出す人が多いだろうが、実際にはもっと動診の数はある。
「からだの設計にミスはない」の口絵写真で、橋本敬三先生が、ベッドに座って患者さんの後方に座り、足を患者さんの背中に当てているものがある。
当時はまだ操体、操体法という名前はないのだが、当時「楽かつらいか」という第1分析だけをやっていたのではない。
圧痛点を押して逃避反応を利用するものもあった。また、足関節の背屈のように、膝窩の圧痛硬結を、足関節の背屈により解除するのも、比較対照の動診ではない。
現在の第2分析の源流とも言えるのが、この写真である。
これはおそらく、操法の前か後の写真である。踵を患者の腰にあてて、両手を患者の肩にかけ、前屈姿勢をとらせるのだ。
体幹の前屈である。この他にも、後屈や、第七頸椎に手をかけて脊柱を天井に向かって押し込むものなどがある。これらは、別に前屈と後屈を比較して、やりやすいほうをやるわけではなく、前屈は前屈、後屈は後屈、脊柱の押し込みは押し込みでやっていた。つまり、比較対照していたわけでない。
そして、これらの動診は、比較的きもちよさが味わえるという共通点がある。このあたりから「操体はきもちよさ」という認識が生まれてきたのではないかと思う。
また、橋本先生ご自身、現役を引退する時まで「きもちよく」といいながらも比較対照の「楽」な動診操法をされていた。ところが、引退すると共に、「きもちよさでよくなる」と言い出したのである。
その時側にいたのが、我が師匠三浦寛先生だった。三浦先生も「楽なほうがきもちいいのだろう」と思っていたそうだが、橋本先生の話を聞いて、カミナリが落ちる位の衝撃を受けたそうである。
そこで、今まで14年間やってきた「楽をききわける操体」を捨てて、「快適感覚をききわける操体の体系化」に着手した。
果たして「楽な方がきもちいいのか」。これは調査の結果、「楽でなおかつきもちがいいということは殆どなく、「楽でなんともない」というのが一番多かったのである。
もうひとつ。橋本先生は卒寿のお祝いの席で「楽と快は違う」と言われている。
しかし、その時同席していた弟子たちの中で、それを覚えている人と、記憶にない人がいるらしい。
覚えている人は勿論橋本先生の言葉を守り、「楽と快はちがう」という認識でその後操体と向き合った。
橋本先生が言われたにもかかわらず、記憶にない人は、未だに「楽と快の違い」を認識しないままなのである。
操体のベテランの指導者の方々の中にも「楽と快の違い」を認識されていない方々は多い。
というか、橋本先生が「楽と快は違う」という「状態以前」で止まっているのだ。
しかし「きもちよさ」という言葉だけは浸透している。今や操体をやっている方々で「楽」という認識を持っている方のほうが少ないのではないだろうか。
「楽なほうにきもちよく動いて」
「どちらがきもちいいですか」
「きもちよさを探して色々うごいてみて」
という誘導をしているのだったら、すぐ改めていただきたいと思う。
納得いく結果は得られないからである。
「楽と快はちがう」
橋本先生はそう言われたのだから、そうしようじゃないか。