これは私が言ったのではなく、先日紹介した島地勝彦氏の新作の一篇のエッセイのタイトルである。
- 作者: 島地勝彦
- 出版社/メーカー: 二見書房
- 発売日: 2011/06/27
- メディア: 単行本
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相変わらず私が愛読している『乗り移り人生相談』だが、60歳前に早期退職をして、色々好きな事をやってみたが、飽きてしまった、という相談が載っていた。シマジ氏は
「淫するほど好きであれば、簡単に飽きてきたりはしないと思うね。より深く学び、その結果、より興味を持ち、もっと深く学ぼうという意欲が沸くという繰り返しで、どんどん対象物にのめり込んでいくものだ。つまりは愛があるかどうかだよ。 」
という。シマジ氏はよく「淫する」という言葉を使うが、これは「みだらなことをする」という意味ではなく『度をすごして物事に熱中する。耽溺する。おぼれる。「酒色に―・する」「賭博に―・する」「書に―・する」』
ということである。
実は一度好きになったり、夢中になったりすると長いのが私の特長である。多分「淫するほど」好きなので、簡単には飽きないのだろう。『好きだったけど嫌いになった』なんていうのは、オトコくらいである(笑)。現在の読書スタイルも、音楽の趣味も、そのスタイルを確立したのは13歳位の頃だ。11月にDEF LEPPARD というバンドが、三年ぶり位に来日するが、考えてみると、中学2年の頃から好きだし、KISSも未だに好きだ(笑)。よく、女の子で音楽の趣味を彼に合わせる、という子がいたが、私にはそんな真似はできなかったのである。
「淫する」と言えば、「操体に淫するほど好き」だなと思う。多分、三浦先生には負けると思うが(笑)。
操体を勉強したい、という人は多いが「淫する」ことができるかどうか、ということだ。
最後に、同書179ページより
人間はどうしようもない淫らさと天にも届く崇高な魂が同じ体のなかにあって、うまく共存しているのである。
何だか橋本敬三先生を思い出してしまうのであった。この言葉は最高のほめ言葉ではないか?