操体法大辞典

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塾・操体

2010年操体法東京研究会夏期集中講座(日曜午前中)のお知らせ



2010年東京操体法研究会定例講習のご案内



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第5日曜の午後は、『塾・操体』というのがある。操体法東京研究会の講習を修了したメンバーが参加できる勉強会である。この日は大抵午前中に東京操体フォーラムの実行委員が集まって打合せをする。なかなか長い時間の打合せはできないのだが、この時は打合せがじっくりできるので、とても大切な時間だ。今回は福岡から秋穂さんが久しぶりに顔を出してくれた。通常よりも人数が少なかったが、途中から師匠を交え、秋のフォーラムのテーマについて話し合ったり、意匠を考えたり充実した打合せの時間だった。今回打合せへの参加者は「ご褒美」ということで、師匠から橋本先生とのツーショットの写真をいただいた。師匠が38歳、橋本先生が88歳か89歳の時の時の写真だ。



『塾・操体』では、テーマを持ち寄ってそれについて色々話し合ったり、または実技指導をしたりする。今回私は改めて「楽と快の違い」という問題を提示した。参加者それぞれに意見を求め、内容を詰めて行くのである。橋本敬三先生は、晩年「楽と快はちがう」と言われた。言われたのに何故かそれを認めない輩がたくさんいた。それは何故かというと、ほんの一握りの近しい弟子に伝えていたからだ。おそらく、聞いていなかった輩のやっかみとかもあったのかもしれない。師匠は橋本先生の「きもちのよさでよくなる」という言葉を追求し、また橋本先生が言われた『楽と快は違う』ということを発表したが、当時の周囲の反応は冷たかったらしい。また、思うにその当時は『きもちよさ』とか『快』は、どちらかと言えば『隠しておく』ような感覚だったのだと思う。また、橋本先生の時代は、まだ脳内分子生理学が確立されておらず、脳内から快感ホルモンが分泌されるとか、そのようなことはまだ分かっていなかったのだが、徐々に脳のしくみや、分泌される脳内物質の研究が進んできて『快』あるいは『きもちよさ』は日の目(?)をみることになったのである。その後、リラクゼーションサロンや『癒し』ビジネスがブレイクしたのは言うまでもない。

こうなってくると、今まで「楽ときもちよさのどこが違うんだ」と言っていた方々も「操体ってきもちよさよねぇ」と言うようになってきた。また、1999年に東京早稻田大学の井深記念講堂で開催された、全国操体バランス運動研究会東京大会では、「快」についての講義がメインに行われた。また、実技でも『瞬間急速脱力』は一切見られなかった。『楽な動きと瞬間急速脱力はトレンドではない』という風潮になったのだと思う。

しかし、ここで『楽』のかわりに「きもちよさ」という言葉だけを使うというケースが増えた。つまり、やっていることは『対なる動きを比較対照して、辛い方から楽な方に瞬間急速脱力するという問いかけ(動診)をしているのに、言葉だけは「きもちよさ」「きもちよく」「快」を使う場合が増えた。本来、楽を問いかける場合と、快を問いかける場合は「動診の方法が違う」のである。しかしそれにもかかわらず、『楽な方にきもちよく』とか『どちらが気持ちいいですか』という問いかけをしているに過ぎない。

こうなってくると、患者はわからないので、「わかりません」という。操者は仕方無く『じゃあ、きもちいいところを探して色々動いて』ということになるのである。

逃避反応だったら、痛みや不快感から逃げるという無意識の整復コースに乗るが、きもちよさを探して色々動くのは、無意識の整復コースではない。また、痛くないところ、辛くないところ、楽なところは比較的分かりやすいが、どこかに故障を抱えている人に「きもちよさを探して色々動け」というのは不親切としか言いようがない。



きもちよさ、というキーワードを用いるのだったら、操者の適切な介助・補助、言葉の誘導と、被験者の全身形態が連動するような誘導と、「からだにききわける」というキーワードが必須である。



そんなわけで、私は今日も「快適感覚を(からだに)ききわけ、味わう」のが操体臨床だよ、からだにききわけるのが「動診(診断・分析)」で、味わうのが「操法(治療)」なんだよ、快適感覚のスケールというのは「操者がきめる」のではなく、からだにききわけて、からだが要求してくる感覚で計るのだよということを書いている。