操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

「ラクな方に気持ちよく」は、操体においては間違いです。

先日のフォーラムで

「きもちよさは探しません!!」と何度も説明したのですが、「一人で操体をやると探してしまいます」というメールを頂きました。

 

一人でやっても、きもちよさは探しません。

型(動診)を行って、その中にきもちの良さがあるのか、ないのか、からだにききわけるのです。探すというのは「型」を無視していることになります。

型(動診・診断)と操法(治療)という順番で行うのが操体ですから、探すというのは、そもそも操体の理念から外れているのです。

 

ここから本題。

最初に書いておきますね。

 

操体を自分で行う場合

ラクにきもちよく」と、言っている人がいたら、それは操体を理解していないということです。

 

惑わされないでください。本も出ています。

この出版社の方から聞いたことですが「実際に操体をやってみてもきもちよさ、というのはわからない」とのことでした。私はその時「それならば快をメインの操体をうけてみますか?」と聞いてみましたが「本を読んで理解します」と言っていました。

私もここの編集の方に「何か操体の本(快に特化)を書かせてもらえませんか」と頼みましたが、隔月刊誌にちょっと書かせてもらったくらいで後は疎遠です。

 

操体って快だよね」と言っていながら、実は「操体における快が実はわからない」という、欺瞞です。

まあ、わかっていないから「ラクな方に気持ちよく動いて」とか言えるんですね。

 

この出版社からは操体の本(橋本敬三先生)が何冊か出ていますが、「操体が快になる前」のものです。完全に移行する前のもので、勿論多少「快」の文字も出てきますがこの時は、まだ橋本敬三先生も「楽と快の違い」は明言されていません(しかしながら、出てくる動診操法で「快」に対応するものは。対なる動きを比較対照するものでなく、1つ1つの動きに快がききわけられるものになっています)。

 

こちらの出版社から出ている橋本先生の本は「操体が快になる前のもの」なので、こちらに載っている操体をやってみても「きもちのよさ」が体感できないのは、当然と言えば当然です。

楽と快は違うからです。

 

これは私が言ったのではなく、操体創始者橋本敬三先生が仰ったことです。

 

ラクな方に気持ちよく」という言葉は「言葉的に優しい」感じがしますが、それに惑わされてはいけません。

 

ラクときもちよさは違うのです。

楽な方は、きもちよくないことの方が多いのです。

但し例外があります。健康でどこも悪くなくて、からだを動かすこと自体が生命感にあふれている赤ちゃんや子供や若い人ならば「うごかすだけでもうきもちいい」というkともありますが、

そもそも操体をやろう、と思う人は、どこかしら調子が悪いのが前提です。

 

このような場合、ラクラク(こっちに動かすといたいけど、こっちはラクで痛くない)なのです。

 

私は年中口を酸っぱくして「きもちよさは探してもみつからないよ」と言っていますが、それにも関わらず「きもちよさを探す」と言う人がいるのは、

ラクな方にきもちよく」ということを言う方がまだまだいるからです。

 

操体はそもそも「動診」(ある動きを試してみる)と「操法」がある

「動診」は、好き勝手にからだを動かすのではなく、あらかじめカラダの連動の仕組みやツクリに沿ったものが「決まっている」のです。

 

いいですか。好き勝手に色々動かして、ではなく、一人で操体を行うにせよ、動診(どうやってからだを動かすか)は「きまり」があるんです。

 

その「動診」の意味をしっかり捉えていないと「好き勝手に動いてください」となり、

好き勝手に動いても「きもちよさ」には巡り会わないので、「そんなら色々動いてさがしてみるか」となるのです。

 

私が自分で操体を行う場合ですが、

いくつかお好みの動診がありますので、それを行います。

いくつかご紹介しましょう。

 

般若身経。操体におけるからだの使い方。動かし方の法則です。

 

般若身経でも「こりゃいつもきもちいいよね」というのがあります。

 

それは、捻転です。

 

立位ではなく、正座からつま先立ち位になります。

そして両手の中指と薬指を。それぞれの肩峰に当てます。

そこで、膝を支点にして、ゆっくり左右の捻転を行うのです。

 

これは、長年ベーシック講習でもやっていますが、かなりの確率で「おっ、これはキモチいいですね」という反応を頂きます。ここまでが「動診」です。

「キモチいいですか?そのきもちよさ、味わってみたい要求がありますか?からだにききわけて、教えてください」と、自分でやっていても、客観的に「からだ」に問いかけます。

 

そうなんです。「自分」と「からだ」を切り分けるんです。

これが、一人で操体を行う場合の、最重要ポイントでもあります。

 

「私(アタマ・思考)」は「何回もやった方が効果があるかも」とか「左右同じ数だけやったほうがいいかも」など、損得や正しい正しくない、で考えます。

おなか一杯でも、目が欲しい時なども同様です。

 

しかし「からだ」は、「一度でも充分なきもちよさがききわけられれば充分」

「左右均等にやらなくとも、快の方向に操法を行えば充分」というように、「損得勘定」「正しい正しくない」「常識ではこうでしょ」とは別です。

「からだ」は「好きかきらいか」「快か不快か」で反応するんです。

 

この辺りを理解せずに、単にエクササイズ的に動きを行ったり、好きに自由に動いてキモチヨサを探してぇ、とか、ラクな方に気持ちよく動いてぇ、とか言っているので、

 

結果的に「きもちよさを探す」になるのです。

探すのではなく、指定された(型があります)動診をためしてみて、そこで「きもちのよさがあるのか(からだにききわけられるのか)?」という問いかけを行います。

ここまでの動診は「型」です。型がちゃんとあります。

 

きもちのよさがききわけられ(あり)、そのきもちのよさを味わってみたい要求があるのか「からだにききわけて」みます。

味わってみたいという要求が、からだにあれば、そのきもちのよさを味わいます。

これが「操法」です。きもちのよさを味わっている時は、操法に入っているので「動き」は、からだに委ねます。型から抜け出るのです。

 

未だに「ラクな方にきもちよく」と、操体で指導している人がいたら、私は言いたい。

操体創始者橋本敬三先生が『楽と快は違う』とおっしゃっているのだから、人を惑わすようなことは言わないことです。

 

色々アレンジしたりしてもいいと思いますが、原理原則を曲げてはいけませんし、「楽と快は違う」とおっしゃった創始者の言葉を曲げるのもいけません。

 

もし「ラクなほうにきもちよく動いて治す」とか「きもちよさを探して動く」というのなら、「操体」という名前は使わずに、オリジナルの「○○法」とか「○○メソッド」と言えばいいのです。