操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

操体では、なぜ「ここちよさ」ではイマイチなのか。

先日ある方から「操体法において、患者様が感じる心地よさについて知りたい」というコメントをいただきました(フォーラムで)。

 

ちなみに、我々「操体法東京研究会」では「ここちよさ」とは、あまり言いません。

それは何故なのか、説明しましょう。

 

昔むかし、ある操体関係者の先生は「私は『気持ちいい』っていうとアレだから『心地いい』って言っています」とおっしゃっていました。

 

どういうことかというと「きもちいい」という言葉には、性的なニュアンスがあるので、「ここちいい」と言っている、ということです。

 

まあこれはほっときましょう

 

ちなみに、ここでは「操体の臨床における快」という前提で、話を進めます。

 

世の中には「快適感覚」「快」の全てを操体に結びつけようとして「きもちいいことは全て操体だ」という暴論を発した方もいたからです。

 

勿論「快」にも色々あるのですが、ここでは「操体臨床の過程における快」、つまり、様々な動診やアプローチを受けた上で、からだ(本人ではなく、からだです)がききわけ、味わってみたいというからだの要求を満たしている、操体臨床として成り立つ「快」を指します。

 

つまり、クシャミしてきもちよかったとか、かゆい背中を掻いてきもちいいとか、トイレで用を足し終わった際のきもちよさなどとは、違うということです。

 

ここまで行かなくとも、多くの人は「快」というと、自分の経験値から想起できる「快」を思い出しますので、混乱するのです。

私も操体法東京研究会の受講生から「快とは何ぞや」という質問を受けた際に、「あ、この人は、自分が想像しうる全てのことを『快』と認識しようとしているな」と、気がついて修正したことが何度もあります。

 

勿論、刺激や摩擦や出し切ってキモチイイ、ということに加え、エクスタシー(恍惚)レベルの快や、宇宙空間を飛んでいるというレベルの快や、生命が根源的に従う「快」というものもありますが、これは一旦おいておきます。

 

さて、操体法で「快」をききわけ、味わうというのは、第二分析です。

こちらは、第一分析とは、そもそも動診操法の過程が違います。

第一分析(どちらが楽かつらいか、対になった2つの動きを比較対称する。比較対称)

第二分析(1つ1つの動きに、快適感覚の有無を確認する。比較対称しない)

 

世の中の、ほぼ99パーセントの方は、「第一分析」と「第二分析」の区別が曖昧です。

 

第二分析では、動診を行った際に「現在行っているこの動診に、きもちのよさ、快適感覚がききわけられますか?からだにききわけて、教えてください」と、問いかけます。

(言葉の誘導は省略しているので悪しからず)

本人が「ハイ。あります」と答えたら、それで良し、ではありません。

 

快は快でも「質の高い快」を味わってもらうために、

「そのきもちよさ、味わってみたいという要求を満たしていますか?からだにききわけて、教えてください」と、操者は問いかけます。

 

「それほどでもない」「味わなくてもいい」と言うならば、その「きもちよさ」は、スルーします。

つまり、あまり質が高くなく、別に味わってみなくてもいいや、という「快」はスルーするのです。

 

「そのきもちのよさ、味わってみたいという要求を満たしていますか?からだにききわけて、教えてください」と、いう問いかけに

「ハイ。味わってみたいです」という答えが返ってきた、つまり「からだが『これくらいのきもちのよさなら、味わってみたいなぁ」という返事が返ってきたら、続行です。

 

つまり、きもちのよさ、快であっても、からだが味わってみたいという要求を満たしていないようなものは、スルー、からだが「このきもちよさ、味わってみたいです」というゴーサインを出していれば、

 

「それでは、このきもちのよさを充分に味わってください」と、「きもちのよさをききわける過程、つまり「動診・診断」から、「快を味わう(治療・操法)」という過程にうつります。

 

第二分析では、からだが味わってみたい、という要求をみたしている質の高い快を、味わうことが、「操法・治療」となるのです。

 

質の高い快は、「ここちよさ」より、かなり質が高いのはお分かりでしょうか。

なんとなくここちよい、ではなく「からだが味わってみたい、という要求がある」質の高い快を、操体の第二分析では、治療(操法)として用いるのです。

 

一般的には、第一分析をやっているのに、言葉だけ「快」とか「ここちよさ」を使うので、動診を行う上での齟齬が生まれます。

 

快は絶対的なもの(相対的ではない)なのに×「どちらがきもちいいですか」と聞いてしまったりするのです。

 

何度も書いていますが、操体臨床においては「どちらがきもちいいですか」という問いかけは行いません。きもちのよさは、絶対的なものであり、比較対称は難しいからです。

 

どこか怪我をした方に、運動分析を行う場合、そうですね。肩にしましょう。

右肩を上げるのと、下げるのと、どちらが楽ですか?どちらが辛いですか?と聞いた場合「あ、上げるほうがいいです」という答えは即帰ってきます。痛くないほう、辛くない方は、すぐわかるからです。

一方「右肩を上げるのと下げるの、どちらがきもちいいですか」と聞かれた場合ですが、下げると痛いので、こちらは痛いのはわかる。しかし、上げるのは「下げるよりも痛くない」という程度であり、これが「きもちいい」には繋がらないのです。

 

むしろ「痛くない」「なんともない」ことが殆どです。

こういう時に「きもちいいですか」と聞かれても「はぁ?」ということになります。

 

私のところには、この「はぁ?」でお悩みの方が数多くいらっしゃいます。

つまり「きもちよくない」「楽でバランスがとれていてなんともない」のに「どちらがきもちいいですか」と聞かれ、困った方。

あるいは、第一分析と第二分析の区別、つまり「楽(動き)」と「快(感覚)」、運動分析と感覚分析の違いがわかっていない指導者から「どちらがきもちいいですか」とか「どちらがここちいいか」と聞きなさいと、教わり、実際にやってみると「わかりません」「きもちよさ?わかりません」などと言われてしまい、困ってしまう治療家の方々です。

 

 

第二分析では「快(そのきもちのよさを味わってみたいという体の要求感覚を満たしている、質の高い快)」を味わうことが、すなわち「操法・治療」になります。

 

なので「ここちよい」程度のライトなものでは、からだは「味わってみたい」というオーダーを出してこないのです。

 

「うわ、これってめっちゃきもちいい。からだが味わってみたい、って言ってる」という「きもちのよさ」を選択するのです。

 

これが、操体臨床においては「ここちよい」というのは、イマイチであるという理由です。

 

操体操体法におけるきもちのよさ」に着いて疑問がある、あるいは実際に体験して違いを知りたいと言う場合は、こちららお勧めです。

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