私はちょっとがっかりした。
というのは、何年も何年も操体を勉強している人の口から『こうしたらもっときもちよくなると思う』という言葉を聞いたからだ。
組んで練習していて、その人は患者役をしていた。『こうしたらもっときもちよくなると思う』というのは、操者役に向けられた言葉だった。
本来、このような場合は「こうしたらもっと介助が決まって、いいかも」とか言うべきなのだ。
『こうしたらもっときもちよくなると思う』という言葉は、『きもちよさをききわける』という言葉からはずれている。
そもそも、主語が「からだ」ではなく「自分」だ。
「自分」というエゴが「こうしたらもっときもちよくなる」という言葉を発する理由だ。
きもちよくなる、のではなく『一つ一つの動きの中に、快適感覚をききわける』というのが動診である。
そもそも『もっとこうしたらきもちよくなると思う』という言葉自体、『きもちよさを探す』に通じてくるのだ。
そういえば、同じ人から『きもちよさをさがす』あるいは『きもちよさが出てくる』という言葉を何度も聞いた。
もう一つ考えられるのは、その人は「非常に質の高い快」を経験しているので、それを味わいたくて、探し求めたいのだろう。
だから、つい「もっとこうしたらきもちいいと思う」という言葉になるのだろう。
つい「きもちよさを探す」とか「きもちよさが出てくる」と言ってしまうのだろう。
しかし、操体の指導者を目指すのだったら、だれが主役なのか、何のための動診なのか理解してほしいと思う。
主役は「からだ」で、動診は「きもちよくなるため」にやるのではなく、「きもちよさをききわけるため」にやるのである。