操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

施術をしながら操者も元気になる秘法(笑)

続き。

島津先生の勉強会で、関西からいらした
「腰痛歴50年のドクター」の講義を聞いた。

「治療家の、自分自身の健康維持増進」
「全ての不調の原因の原因は足である」

という話になった。

それを回避する対処法は、

  1. 靴を履かないこと(かかと着地になりやすい)
  2. 骨間筋の活性化(足踏とか)
  3. 足底筋膜、アキレス腱の強化

ということだった。ドクターは、なるべく靴を
履かずに、ワラジや鼻緒のついた履物で対応しているそうである。

 

先程の

  1. 靴を履かないこと(かかと着地になりやすい)
  2. 骨間筋の活性化(足踏とか)
  3. 足底筋膜、アキレス腱の強化(その場ジャンプとか、つま先屈伸とか)

の、2と3は、足趾の操法®で解決できる。

 

何せ、操体は、臨床終了後、
足踏、屈伸、全身を動かしてからだをチェック、ということをやる。

また指骨間筋を揉むのは、足趾の操法が一番得意なところなのだ。

さらにそこには「快」というものすごいごほうびが待っている。

へー、被験者はきもちいいけど、操者はどうなの?

足趾の操法って自分ではできないでしょ??という質問もある。

ところが、

きもちいいのは被験者だけではなく
操者も「快」の波動を受けて調子がよくなってしまうのである。
これは私自身何度も体験しているし、
「快という波動の共有」の場にいたならば、
驚きの体感を得ることができるだろう。

被験者に「痛み」を与えるということは、
それだけ「苦痛」を与え、操者と被験者が共有すること。

痛いことを共有するのだから、
操者もそういう波動をもらってしまうのかもしれない。

 

別に痛みのある施術をしてもいいのだ。
その後に、最高のきもちよさを、被験者に味わっていただき
そのきもちよさをシェアするならば
操者のからだも同時にケアできる。

そういう意味でも「足趾の操法」は、様々な臨床家に
習得していただけたらいいのになぁ、と思う。

 足趾の操法集中講座。参加者募集中

 

 

操体臨床家は、自分のケアができる。

操体の臨床をやっていると、
操者(治療者)も元気になってくる。
それが操体の特徴の一つでもある。

他に「治療者も元気になってくる」
なんていうモノはあるだろうか?

これは、治療者(操者)も、被験者と一緒に
「快」を味わい、共有するからである。

 

なので「楽な方に動かして、瞬間休息脱力」では
快の共有はできないし、
「どちらがきもちいいですか」
「きもちよさを探して(動いて)」というような
いわゆる「※迷走分析」では、被験者が「快を味わう」
というケースは殆どない

 

※迷走分析 
第一分析と第二分析を混同、つまり「楽」な動きに対する診断分析と、「快適感覚」に対する診断分析を混同していること。
特徴としては「どちらがきもちいいですか」という問いかけや、最初から「きもちよく動いて」という指示をしたり、きもちのよさを押しつけ、「楽」の問いかけをしているのに「きもちよさ」を強要し、被験者に「自分はきもちよさがよくわからない」という不安を与えてしまうことが多い。

 

また「自力自療」の操体もあるので、
日々のメンテナンスも可能である。

「連動」をマスターしており、
「快の回路」が通っていれば、
からだを動かさなくとも、また、
指一本動かしただけでも、快的感覚を味わうことができし

 

 

先日、柳生心眼流の島津兼治先生のお誘いで、
師匠と一緒に先生の勉強会に参加してきた。

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★手首の筋を操作する島津先生の図

前半の部では、人生50年近く腰痛に悩まされ、
それが腱引き(筋整流法)に出会ってから、
腰痛の悩みから解放されたというドクターの講義があった。

ドクター曰く、
「治療家(臨床家)は、やはり自分の健康維持管理が大切」
とのことで、なるほど、と思ったものである。

 

ちなみに、いわゆる治療家の先生方は、
結構短命が多い。

私の知っている先生も何人か
操体以外の先生方、例えば整体などである)
50代半ばや60代前半で急逝なさったりしている。
「健康」を指導している先生方が、である。
残念なことである。

これは、自分自身の健康を削ってまで、他者に貢献している
ということなのかもしれない。

 

操体に関しては、橋本敬三先生からして96歳という
長寿を全うされた。

これは「快」のお陰ではないかと思う。

橋本敬三先生は、85歳を越してから、
「きもちよさで良くなる」というように、操体の定義を
シフトチェンジなさった。

80歳までは、操体以外にも様々な治療法を
何でも試してみたそうだが、80歳にして
「自分のやっていることは間違っていなかった」と思うに
至ったという。それが「きもちのよさで良くなる」ということだ。

★これは「きもちよく動く」という事とは、ベツモノである。
★動いてみないと「快か不快か」はわからない。
★きもちよく動く、というのはその後だ。
★動いてみて、きもちよさを味わうことによって、良くなるのだ。

 

きもちよさの押し売り。

これは、最もやってはいけないことである。

先日、あるクライアント(他で操体を受けたそうである)が言うには
「動けばきもちいいでしょ」と言われたと言っていた。

話を聞くと、どうやらその先生は(私もなまじっか知っているので、
参ったなという感じ)、身体能力が高いので、

「動くときもちいい」という、希有なからだの持ち主なのである。

「自分がそうだから、他人もそうであろう」というわけで
クライアントにも「ね、動くときもちいいでしょ」
「からだが繋がるでしょ」というらしい。

ところが、多くのクライアントは、
からだに不調を抱えているので
「快か不快かききわけるちから」(原始感覚)が鈍っていることが
ある。

そういう時に「動かすときもちいいでしょ」と言われても
そうは行かないものである。

 

また、別の方からは、操体を受けて
「どうですか?きもちいいでしょ」
「じわ〜っときませんか」
と、

「きもちよくて当然」という言葉をかけられたのだが

「よくわかんなかった」のだそうだ。

そして「何パーセントくらいのきもちよさですか」
と、さらに追従質問され

きもちよくも何ともなかったのだが
仕方ないので

「50パーセントくらい」と答えたら
先生にムッとされたらしい。

これは、

「きもちよさの押し売り」だ。

きもちいいかどうか確認せずに
「きもちいいでしょ」と、決めつけられても困るではないか。

「この動き、きもちのよさがききわけられますか?」と
聞くなら「ハイ」とか「イイエ」と答えられるが、

「きもちいいでしょ?何パーセント?」と聞かれたら
きもちよくない場合はどうするのだ。

答えようがないではないか(笑)

この話をするとゲラゲラ笑ったり、眉にシワを寄せたりする
受講生もいるが、笑ったり眉にシワを寄せたりする前に
「果たしてそういうことをしていないか」注意する必要がある。

そのような体験をされた方に聞いてみると
「面倒臭いから適当に答える」(ホントです・・)

という答えが圧倒的に多かった。

「きもちのよさ」というのは感覚だ。
人によって違う。
同じことを同じだけやっても、当人の官能や
症状、体調、精神状態などによっても変わってくる。

くれぐれも

「この動きはきもちいいハズ」とか、決めつけてはいけない。

きもちのよさをききわける操体臨床は
「操者の決めつけを廃し、からだにききわけて行う」のである。

2015年4月29日(水)


2015年春季フォーラム « 東京操体フォーラム

「きもちよく動いて」では、すまないわけ。

私のところには、
操体を受けたんですが、きもちよさっていうのがわかりません」
という方がよくいらっしゃる。

二人に一人くらいはそういう方だ。


昨年、大阪で師匠(三浦寛先生)が「般若身経」の講習をやった際、
関西のマダム達に

「きもちよさってわかる人」と聞いてみたところ、手を挙げたのは
僅か数人だった。

次に「楽か辛いかはわかる人は?」と聞いたところ、
多くの人が手を挙げた。

これは、どういうことかというと

操体の指導者が、
・きもちよく動いて、という指導をしている
・「どちらがきもちいいですか」という問いかけをしている
・きもちよさを探して(色々動いてみなさい)という指導をしている

可能性が高い。

なぜ、きもちよさがわからないかというと、
それが「きもちいい動きではないから」か、
「バランスがとれていて快でも不快でもない」ということを指す。

また、これはやってみるとわかるが
自分で動いてみる「きもちよさ」は、探してもあまり見つからない。
自分で動いてみて見つかるのは「あ、ここは痛くない」とか
「ここは楽だ」ということのほうが多い。

★きもちよさが見つかるのはずばり、「性的な接触」などの時である。
★例えば、性感の開発等で自分のからだに触れてみるとか
パートナーに触れてもらって、未開の性感帯を発掘するとか

操体の「快」は性的な快とは異なるのである。

言葉では「きもちよく動いて」というのは簡単だ。
また、これはフィットネスクラブなどでもよく聞く言葉だ。
ストレッチも「きもちいいように」という指導も最近多い。

よく考えてほしい。
きもちよく動く前に、

その動きが「きもちいいかどうか」動いてみないとわからないではないか??

なので、本来は「ある動きを試してみて、それが快か不快か」という
「ききわけ」が必要なのである。

それでは、なぜ「きもちよく動いてぇ」というのが
成り立ってしまうのか(本当は成り立たないし、指導されたほうが
本当にきもちいいかは限りなく不透明)。

それは、健康体操や養生法の場合だと、
ある程度動ける人、運動が可能な人、公民館とか体操教室とかに
行ける人が対象だからなのである。

なので「きもちよく動いて」と言っても
通じてしまうことが多いのだ。

健康体操ならば「きもちよく動いて」でも通じる。

(でも、どちらがきもちいいですか、は通じないことが多い)

臨床であれば「ある動きを試して(動診・診断)、
その動きに快適感覚があれば、それを味わう(これが治療・操法
となる。

 

私達は、どちらかと言えば
ぎっくり腰で動けないとか、寝違いで首が動かないとか
すごく具合が悪いとか、そういう人に操体を行うことが多い。

 

ぎっくり腰で動けない人に
「きもちよく動いてぇ」とか言ったら、
「何言ってんの??」と怒られるであろう。

痛くて動けないから来ているのに
「きもちよく動け」と言われたら、当然である。

 

さて、
十五年位前だろうか。
在る男性がぎっくり腰でやってきた。
何度か来ていたのだが、当時一緒にやっていた方がメインで診ていた。
その方は(今でもそうみたいだが)、
「きもちよさを探して(動いて)」という指導をしていたようであった。

というのは、その男性は、腰が痛くてからだを海老ののように丸めているのだが、
色々もぞもぞ、痛いのを我慢してからだを動かしているのである。

「どうしたんですか?」
「いや、きもちよさを探してるんです」
「・・・・(どういう指導してたんだろ?)」
私はその時気がついた。
ぎっくり腰とかこういう急を要する場合、
「きもちよさを探して」というよりも
「痛くない、辛くないポジションを探すほうが、からだとしては妥当である」と。

その方は「きもちよさを探して」と言っていたのだが、
実は「痛くない、楽なポジション」を探していたのである。

私はこれで
「きもちよさは、探しても見つからない」
「きもちよさは、ある動きを試してみて、あるかないかをききわけるほうが
確実である」ということがよく分かった。

私が、三浦寛先生の「楽と快は違う」という意見に賛同し、
先生に弟子入りするのはそのすぐ後である。

 

★関西は、健康体操、養生法として、
操体道普及友の会」(故中川重雄氏主宰)の支部のようなものと
「○○操体の会」などの活動が盛んである。
★関東では、医師が臨床で用いていたものとして、
操体法東京研究会はじめとし、治療家、臨床家の実践が多い。 

快からのメッセージ―哲学する操体

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 再販されました。「快からのメッセージ」
「楽と快の違い」がわかります。

体験すればなお分かります。

2015年春季東京操体フォーラム開催
4月29日

それってセクハラ??

視診触診の講座をやっています。

「触れる」というのは、私の生涯のテーマの一つでもあります。

「触れる」というのは日常的でありながら、デリケートな問題です。

 

昨日、まつげのエクステのメンテをしながら
アイリストのIさんとお話したところ、スポーツ整体で、予想もせず
裸にされてオイルマッサージされて、胸を揉まれたとか、
(これはセクハラですよね)

整体院で腰をもまれながら、
先生に「オレ、最近彼女いないんだよね」と言われたという話を
聞きました。勿論「ちょっと不快」だったそうで。

女子のクライアントが
「最近彼が冷たくって。私の寝技が未熟なんでしょうか云々」という
相談をもちかけるならわかりますけどね(笑)

先に「ベッドに仰向けに寝た時、男性の先生にまたがられて肩を揉まれた」
というのもありました。

私は背中をストレッチしますと言って後ろから手を掴まれて、
後屈状態にされ、男性の先生の局部を
臀部と背中にこすりつけられたことがあります(笑)。

痴漢と同じで、その時は「やめて~」とかなかなか言えないわけですね。
それで後から
「うげ~、きもちわるい」「やめときゃよかった」とか思うということは、
結構あります。私の周囲でも結構いるので、
詳細に調査するとかなりの女性が不快感を感じたりしているのではないかと。

 

かといって、世の中には全然不快感なし!
さわやかで女子にモテモテ(ホントです)という男性の先生もいます。
うちのフォーラムの○○先生とか。

個人的には、陰陽があるので、男性は女性、女性は男性が診たほうがいいような気もします。

実際、私は男性のクライアントのほうが多いんです。

というのは、昔ずっとエステのお世話になっていたのですが、
エネルギーの流れがやっぱり違うんですね。


というわけで、私は操体の臨床をやってるときは「中性」になって
やっております。
「お前の場合はオヤジだ」と言われてしまいそうですが(笑)

いわば、相手によって自分の「性相」をコントロールしているような感じです。

その点、というと何ですが、操体をやっていると「性相」が消えてきて「施術中は中性的」という感じになってくるんですねこれが。


「快からのメッセージ」増刷のお知らせ

お待たせ致しました。

品切れになっていた「快からのメッセージ」が増刷になりました。

「皮膚へのアプローチ」を詳しく学びたい方は是非。
私は自分の受講生には「絶対読め。わからなければ100回読め」と言っています。
「楽と快の違い」がわかり、皮膚へのアプローチの理解が深まります。

快からのメッセージ―哲学する操体

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 ★たにぐち書店さんに頼んだほうが早いと思います。

ここ最近、「皮膚」に対する興味が、
操体関係者の中でも高まっているようです。

先にも書きましたが、皮膚という概念がなかった時に
師匠、三浦寛が「皮膚への接触」を発表した際、

多くの操体関係者は

何言ってんだ?

みたいな反応をしました。
私は目の当たりにしております。

ところが、近年は「何言ってんだ?」と言っていた
方々から「皮膚操体」という言葉を聞きます。

 

私は、五年前に「五年後、今まで皮膚を無視していた
操体関係者が『操体って皮膚よね』と言い出すよ」という
予言をした話を書きましたが、まさにその通りになっている
という次第。


「快」の時もそうですが、「皮膚」についても
操体ってみんなのものだから、自由に使っても
いいじゃ~ん」というに違いありません。

まあ、そこが結構ずるいといえばずるいと思います。

 

それはさておき、

 

★浦自身は最近「皮膚操体」という言葉は使わず
皮膚へのアプローチ、渦状波と言っています。

「皮膚操体マッサージ」
操体的マッサージ」など、

(注:そもそも、マッサージという言葉は、
資格所有者以外は使ってはいけないものです)

皮膚を引っ張ったり揉んだりつまんだり捻ったりという
刺激がメインのようです。

「楽な動き」をやっていた先生方が、
「言葉だけの快」に移行した時のように、
(言葉では快、といっているが、やっていることは
楽か辛いかの比較対照なので、診断分析が混乱している)

皮膚に触れれば「皮膚操体」みたいな
安易な感じも見受けられます。


★三浦が唱えている「皮膚へのアプローチ」は、
刺激にならない接触です。

これを「渦状波®」と言います。

面の渦状波、点の渦状波というものがあります。

これらは、刺激にならない、皮膚への接触です。

そこが違うのです。

 

操体は日本全国同じではありません。

なお、最初に、関西エリアには(神戸)には、
東京操体フォーラム実行委員の日下先生はじめ
操体の臨床をなさっている先生方もいらっしゃることをお知らせしておきます。

 

ざっくり言えば、

東京(関東・東北)は、操体を臨床(治療)として捉えており、
関西及び中国地方では操体を健康体操・養生法として捉えているという
傾向があるということです。

つまり、関西でも関東でも操体は同じ、ではないのです。

私からみると、関西と関東は(傾向として関西は「操体法」といい、
関東は「操体」というような気もします)
全く違うことをやっているように思えるのです。

つまり、健康体操をやりたい人が
プロ向けの講座に行っても大変ですし、
臨床家志望の方が、健康体操を習っても話になりません。

目的を明確にする必要があるということです。


関東エリア(東北含む)は、橋本敬三先生が顧問である
操体法東京研究会三浦寛先生主宰)の操体臨床家養成の講習を
受けた先生方がメインです。

実際、現在臨床的な操体を指導していらっしゃる先生方の殆どは
操体法東京研究会の出身です。

関西地方は、北田洋三先生が、仙台に通い、
それを関西に持ち帰りました。

現在関西では故中川重雄先生の「操体道普及友の会」
が関西各地で活動しているようですが、中川先生は、北田先生から操体
習ったとのことです。

操体道普及友の会は、いわゆる「体操サークル的」なもので、

身体運動の法則(般若身経)= 基本運動と捉えているようです。
つまり、操体を健康体操、養生法として捉えています。
生活に活かすというのもポイントのようです。

 

一方、私共(操体法東京研究会)では
身体運動の法則 = 三法則と一相関性(今はもっと増えています)
と、捉えており、健康体操や養生法ではなく、
からだの使い方(重心安定の法則)、からだの動かし方(重心移動の法則)、
連動の法則(以上三法則)、呼吸との相関性(以上一相関性)として
捉えています。

良し悪しではありませんが、健康体操として捉えており、サークル活動をしているのか、
元々医師が臨床の場で用いていたものを、より実践・実戦的にやっているか
という違いです。

この違いを、良く覚えていただきたいと思います。

 


私が操体を学んだのは、創始者橋本敬三先生の愛弟子、三浦寛先生です。


私は「操体法治療室」を読んで、操体の臨床家を目指しました。

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なので最初から「操体とは、医師が実際に臨床(治療)で用いていたものである」という
認識で学んでいました。

ところが、操体の全国大会(全国操体バランス運動研究会)などに参加すると、
出席しているのは関西地方の臨床家ではなく、
操体愛好家のマダムが殆どでした(操体を健康体操、養生法として認識している)。

そして、指導しているのは、体操あるいは動くことができる、比較的元気な
方々で、指導者も、臨床家ではなく、体操や運動の指導者が多いように
思えました。

 

★関西地方ではその伝達経路により、養生法、健康体操として操体は広まっています。
また、操体法東京研究会では、医師、橋本敬三が実際に臨床で患者様の治療に
用いていたことから、臨床(医師、治療家が患者、クライアントを直接診る事。
(臨床医というのは実際に患者を診る医師を指し、
その反対語は研究医)として操体を研究しています。

橋本敬三は患者には「操体は簡単だ」と言っていましたが、
弟子には「よくこんなものに足をつっこんだな。でも、操体は面白いぞ。
生楽しめるからな」と言いました。

操体は簡単で自分でできる養生法でお金もかからない、というのが関西風で、
操体の臨床は「大変なものだが、一生楽しめるし、操体はリベラル・アーツである」
というのが我々操体法東京研究会風だと思っていただければと思います。

★私は実際関西エリアの操体指導者から「私、操体って安いもんだと思ってました」
と言われ、驚いた経験があります。操体のプロになるには時間も投資も必要です。
この指導者は、「健康体操だから安い」という考えがあるのでしょう。

今から32年程前までは、きもちよさ、ではなく「楽な方に動かして
瞬間急速脱力」というものでしたが、
32年前、創始者橋本敬三自身が「これからの操体は楽(な動き)ではなく、快(適感覚)である」と、
操体の基軸を変えました。シフトチェンジです。

この時、師、橋本敬三の意志を継ぎ、未完成だった「快適感覚」を操体臨床に取り入れ
完成させたのが、私の師匠、三浦寛東京操体フォーラム理事長であり、
操体法東京研究会の主宰者です。

今でこそ誰も「操体は『楽』だ」とは言いませんが
三浦が快適感覚を取り入れた動診と操法を確立した当初は、
まだ「快」という言葉が一般的ではありませんでした。

橋本敬三先生の卒寿の祝いに執筆した本(操体法治療室)は、
当初橋本敬三先生の監修予定だったのも、橋本家によって阻止され、
書籍タイトルも「温古堂治療室」から「操体法治療室」に変更を余儀なくされ、
温古堂の書棚に並べても貰えなかったそうです。なお、橋本敬三医師は、
本をそっと見せた共著者の今昭宏先生には「よく書けてる」と、
お褒めの言葉を下さったそうです。

ところが、三浦と同時期に操体を学んでいた操体指導者達は、
「きもちよさ」を無視し、三浦は暫くの間、無視されるという状態が続きました。

要は「楽も気持ちよさも同じだ、三浦が言ってることはヘンだ」というわけです。

橋本敬三先生は卒寿のお祝いの席で「楽と快は違う」とおっしゃったのですが、
お酒も入っていたのか、この先生の言葉を聞いていなかった弟子も多くいたのです。

しかし、1990年代「脳内革命」などによって「快」という言葉はポジティブな
意味につかわれるようになりました。それまで、快とか気もちいいという言葉は、
性的ニュアンスを感じさせることもあり、
余りおおっぴらに使える時代ではなかったのです。

すると、今まで「楽も快も同じだ」と言っていた指導者達が、
さも昔からそうだったように「操体は快だ」と言い出しました。

言い出したのはいいのですが、

楽か辛いか比較対照し、楽な方に動かして瞬間急速脱力するもの(第一分析)と、
一つ一つの動きに快適感覚の有無を問いかけるもの(第二分析)は、
動診と操法の行程が違うにもかかわらず、

「言葉では『きもちいい』といいながら、やっているのは
楽か辛いか」というやり方をはじめたのです。
わかりやすい例ですが、きもちよさというのは、比較対照しにくいものです。
何故なら、これは感覚を問いかけているから。

左向くのと右向くの、どちらがキモチイイ?と聞かれると困りませんか?
逆に、左を向くのと右向くの、どっちがやりやすい?楽?と言われると、
割とすぐ分かるはずです。これは運動差(可動域)でみているから。

この二つを混同してやっている指導者が未だに多いのです。これを「迷走分析」と言います。

大阪で、三浦先生が講義をした祭、
参加のマダム達に「きもちよさって分かる人」と
問いかけた際、手を挙げた人は僅かでしたが、
「楽か辛いかは分かる人」と、問いかけた際、
非常に多くの方が手を挙げました。

実際、指導者が「きもちよく動いて」
(本当は、動いてみなければ、きもちいいかどうかわからないので、
最初から「きもちよく動け」というのは、不適当)
と、指導しているのかもしれませんが、

参加者は、分からない、と思っているのかもしれないな、と
思った次第です。

なお、私も「互いにわかり合えるかも」と思ったこともありますが、

関西エリアの多くの「操体法」と、私達が学んでいる「操体」は
ルーツは同じであれど、全く違う異母兄弟みたいなものだなと
思っています。