先の「秘伝」の取材、または昨年の「動きの達人入門」の取材、あるいは近年の古武道ブームや身体感覚論が広まるにつれて、操体に興味を持つ方が増えてきたように思える。
最近とみに思うのが、「快」というキーワードがこれらの世界にも浸透しつつあるのではということだ。
先日の「秘伝」の「整体で強靱(つよ)くなる」というタイトルも、なるほど、と思う。
操体を学び、自ら学んでいるものに応用貢献している姿もよく見られるし、喜ばしいことだと思っている。
基本的に彼らはからだができていて、感覚をききわけるセンサーが発達している。
つまり、原始感覚(快か不快かをききわける力)が鋭い。
よって、きもちよさをききわけられやすいのだと思っている。
また、自発動のような無意識の動きも発動しやすいように思う。
そこでいつも気になるところがある。
彼らは、自分がその感覚に優れている故に、他人も気持ちよさという感覚を得やすいと勘違いしている場合もある。
それが、「きもちよく動いて」という指導である。
このきもちよく動いて、という一言にも、実は様々なニュアンスがあるのだ。
まず、操体においては、言葉に出す出さないの差はあれど、
動かしてみて、感覚をききわけさせてから「きもちよく動いて」という
言葉を使う。
動診(ある動きを試してみて、感覚をききわけさせる)
その動きにきもちよさ、快適感覚があったら、「きもちよく動いて」という操法に入る。
つまり、「なんでもいいから、きもちよく動いて」というわけではないのである。
それが、彼らにとっては、「動く=きもちいい」という図式があるようで、ある動きをためしてみて、という動診の過程が抜けていて、最初から「きもちよく動いて」という認識があることが多い。
また、動診という重要な過程の意味を考えないと、
「色々動いてみて、気持ちいいほうを捜す」というようになってしまう。
※色々動いてみてきもちいいほうを捜す、というのは根本的な間違いである。何故なら、これは有意識の動きであるからだ。
(何度も触れているが、痛みから逃げるというのは無意識の動きだが、これが、気持ちよさを捜す、というように誤って認識されている場合がある。
また、彼らは原始感覚が優れているため、無意識の動きが自然に発動しやすい。
しかし、操法を施す相手が、健康傾斜のバランスを崩している場合や、原始感覚が鈍っている場合に
「きもちよく動いて」
といっても、きもちよく動けないのである。
「きもちよく動いて」という前に、感覚の確認が必要なのだ。
何故、このような話を書いたかというと、きもちよく動けるような人ばかり相手にしていると、本当に健康のバランスを崩している人を診る場合、お手上げになるからだ。