操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

操体は「きもちいい方に動く」のではありません。

今日も、操体実践者や操体の指導者向けに書いています。

 

一般の方は「前知識」などは不要です。

 

橋本敬三先生が、患者さんには「操体は簡単だよ」とおっしゃったのに、弟子には「よくこんな大変なことに足を突っ込んだな」とおっしゃったのは、操体の指導者は「大変なところを患者さんのかわりにカバーする義務」があるからです。

 

この「操体は簡単だよ」(対患者さん)という言葉を信用し、「操体って簡単に習得できるんですよね」と勘違いする手技系の方や、治療家志願の方がいらっしゃいますが、操体の指導者にとって、操体は「簡単」ではありません。

 

 

先日「操体ってきもちいい方に動けばいいんですよね」という質問をいただきました。

 

全部間違いではありませんし、この文言を使っている操体指導者の先生方も多数いらっしゃいます。

 

ただ、この言い方は、操体に対してあやまった認識を与えることになります。

 

正確には、

動いてみてきもちのよさがからだにききわけられたら(動診)、それを味わう(操法)。

 

操体は、いわゆる「慰安行為」ではなく、医師が現場で用いていたものです。

 

慰安行為(リラクゼーション)と、治療(施術あるいは手技療法)の一番の違いは何かと言うと、「診断(あるいは治療計画)・動診」があって、はじめて「治療・施術・操法」が成り立つということです。

 

これを忘れてはなりません。

 

そして、橋本敬三先生は「医師」でした。

 

医師が、診察をしないで、治療をする、なんていうことはあり得ませんよね。

 

 

慰安行為と治療の違いは「診察や診断をするか、治療計画を立てるかどうか」です。

 

「ココが凝っているから揉んでください」と言われて、その通りにするのが、リラクゼーションや慰安行為です(コースが決まっていたりしますよね)。

 

「きもちいい方に動く」という前に

「その方向への動きは、快なのか、不快なのか。それとも楽でなんともないのか」

という動診が必要だからです。

 

★きもちいい方に動く、という言い方は、私も操体以外なら何も言いませんが、操体を指導している方が、この書き方をするのはちょっと考えてほしいと思っています。

 

考えてもわからないという方は、楽と快の違いを勉強してください。

わかっていないのに「きもちいい方に動いて」というのは、無責任です(汗)。

 

「きもちいい方に動く」というのは100パーセント間違いではありませんが、

この言葉は、クライアントや一般の方には誤解を与えることがあります。

 

この誤解が、かなり問題です。

一方「きもちよさには関係ない、つまり『楽か辛いか』の第一分析」を提供している場合でも「きもちいい」という言葉は使いたいのです。

何故なら「きもちいい」というのはインパクトがあり、注意を惹く言葉だからです。

 

そして「操体ってきもちいいんだってさ」と受けに行って、「きもちよさって何だかわかりませんでした」という方が、私のところや、フォーラム実行委員のところにいらっしゃる、というサークルがある程度完成しているわけです(完成してほしくないんですけどね)。            

 

1.動いてみないときもちいいかどうかはわからないのに「きもちいい方に動いて」とか言われるので、クライアントが不安になる(かなり多い実話)。

 

★これについては、私もかなりしつこく言っていますので、少しは浸透してきたのかな、と思います。

 

★また、身体能力が高い人は「動いただけで気持ちいい」とか、我々のように連動や新しい理論をマスターしていれば、それもあるかもしれませんが、操体を受けたいというクライアントは、どこか調子が悪い場合が多く「動いただけできもちいい」ということが当てはまらないことが殆どです。

実際、こういう「能力がたかい」 人に聞いてみると「なんでわかんないの?」という話になります。

つまり、能力が高い故に、人の痛みがわからないのです。

 

ここは「人の痛みがわかんのがプロよ」(By 橋本敬三医師)と心得ましょう。

 

★さらにこれもかなりしつこく言っていますが、ぎっくり腰とか首が回らない方や、帯状疱疹の後遺症で全身が痛いような方や、リウマチの方に「きもちいい方に動いて」というのは、横暴とし言えません。

 

私がぎっくり腰になって「いたたた」というときに「きもちいい方に動いて」と言われたら「はぁ?」とか「オイコラ!」ってなります。

 

2,「動けば必ず気持ちいいにちがいない」という誤解です。

 

私自身も「操体では必ずきもちよさが味わえる」と、信じている人に多数遭遇しました。

 

しかし、操体では「必ずきもちよさが味わえる」ということは、ありません。

 

 

 


この図のように「バランスがとれていて快も不快もない」という場合もあるからです。

 

そういう時「必ず動けばきもちよさがあるに違いない」と思い込んでいる方が起こす行動が「きもちよさを探して色々動く」ということです。

 

私はこういう人をかなりの数で見ています。

聞いてみると「きもちよさが絶対味わえるはず」と思っていらっしゃるのです。

 

そして何故かこの考え方を強固に変えず「やっぱりきもちよさを探してしまいます」とおっしゃいます(見つからないのです。ずっと)。

 

また「きもちいい方に動く」という言葉の主語は何でしょう?

 

私、ではなく「からだ」になるのです。

 

私が気持ちいい、のではなくゆっくり、「からだに」感覚をききわけながら、その動きの中に「きもちのよさがききわけられるのかどうか」を確認します。

 

さらに、第二分析の特徴として「末端関節から動きを表現」します。

何故かと言うと、末端関節(手関節、足関節)に介助や補助があるので、全身形態の連動が促され「快」につながる運動充実感が生まれるからです。

 

たまに、逆連動として、体の中心腰から、というのもやりますが、第一分析は、ほぼ体幹か、その部分(首なら首、肩なら肩)のみ動かすものが多いものです。

 

これが、いわゆる第二分析の「動診」です。

 

そして、きもちよさがききわけられたら(これが、診断です)、そのきもちよさを味わう。これが「操法(治療)」にあたります。

 

つまり、第二分析という「快をききわけ、あじわう」という動診と操法を行うには

「きもちいい方に動く」という表現では足りないし、第一分析では「楽な方、スムースに動く方」なので「きもちいい方」というのは、ある意味言葉の詐欺になります。

 

というのは、動いても「きもちよさ、快適感覚」が起こりえない状態で「きもちいい方に動きましょう」と言っても、受け手は実のところ「きもちいいかどうかわからないけど」やってみる、という状態だそうです。

 

これは、数年前に、大阪で行った三浦先生のセミナーで、先生が関西の操体実践者の方々に「楽か辛いかは分かる人」と聞いたところ、ほぼ全員が挙手しましたが、

「それじゃ、きもちよさが分かる人」と聞いた時、挙手したのは指導者クラスの方二人くらいでした。

 

つまり「きもちよさ」と言っているのですが、わかっていない人の方が多いのです。

 

因みに、奈良の北村先生は、私とニュアンスは多少違いますが「無の操体」ということをおっしゃっていました。

これは「楽でなんともない」ということに通じるのでしょう。

 

というのは、私が上記の表を思いついたのは、北村先生の「無の操体」についてのお話を聞いたからです。

 

実際に、操体の臨床をやっていれば「楽でなんともない」という壁にぶつかるのは全く普通のことです。