「自力自療」という言葉の説明については、もう何度も書いてきた。しかし、今回これを書くというのは、また人に聞かれたからである。
師匠の留守に電話を頂いた方に連絡を差し上げた。
その方は長年首の痛みに悩んでいて、ある日サイトを見て師匠に手紙を出したのだという。
操体に興味を持つ方にはあるパターンがある。
1.治療家、療法家が自分の仕事に取り入れたいと思い、講習を受けたいと願う場合。
これは比較的多数にのぼると思われる。大抵は鍼灸、柔整、カイロ、整体など、人様のカラダに、触れる仕事をしている。
2.一般のいわゆる「患者様」
どこかに不調を覚え、来院、通院する。
3.一般の方であるが、操体に対して「自力自療」という認識が誤っている場合。つまり、操体を受ければ、自分で覚えられると思っているか、何だか体操の一種だと思っている場合。
私が連絡を差し上げた方は、「3」に該当したのである。
まず、「自力自療」という言葉は「一人操体」(一人でできる)ではない。
(そもそも、橋本敬三先生の言葉の中に『一人操体』という言葉はない)
その方も例外にもれず、操体の講習と治療のどこが違うのか、良くわかっていなかったのである。
つまり、自分のつらい症状を治すには、治療を受ければいいのか、操体の講習を受けて、操体を覚えればいいのか迷ったのである。
今でも覚えているのが、数年前、ある受講生に『操体を一言で言うと?』と、聞いたら『自分で動く』と言った者がいたことだ。
その時私は『自分の教え方はまだ甘い・・』と思ったものだった。
しかし、彼にこのような答えを貰わなかったら、ここまで「自力自療」という言葉を考えただろうか。
今考えると、この一言は私の頭に雷を落としてくれた、ありがたい?
一言でもある。
自分で動くんだったら、動くものは何でも全部操体である。
勿論そんなことはない。
自力自療というのは、本人にしかわからない感覚をききわけ、快適感覚があればそれを味わう、それが治す力(治癒力)につながる、ということだ。
感覚を無視して動いているのは単なる体操だ。
また、自力自療というのは、その本人にとっての責任でもある。
感覚をききわけ、味わうという行為は他の人にはわからない。
それをききわける手伝いをするから、感覚はききわけてよ、というのが
私達(操者、指導者)の役目でもある。
操体は正体術という、運動分析から生まれた。
それがいつしか『きもちよさ』というキーワードが加わり、感覚分析へと進化していった。
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にも書いてあるが、橋本先生は、85歳を越されてから親しい弟子達に、
『動きよりも感覚の勉強をしなさい』と言われている。
いつものようにまとめると、
一人でやろうが
二人でやろうが
百人でやろうが
それは『本人にしかわからない感覚をききわけ、味わう』ことが操体であるからには
自力自療なのである。
自分でやるから、一人でやるから自力自療なのではない。
(ああ、また書いてしまった・・・)
が、これを地道に叫んでいくのが自分の使命かも、とも思う。