LOVE (角川文庫) 「ビックリハウス」とか「ヘンタイよい子新聞」とか初期の「VOW」で育った上、仏像好きな高校生だったので、みうらじゅん氏のエッセイが結構好きだ。この本は知人に勧められて読んだのだが、何度読んでも面白い。トイレに置いてあったりすると何度も読んでしまう、そんな不思議な本なのだ。
それはさておいて、みうら氏が美輪明宏さんと話をするエピソードがある。たしか『私は、世界をはかるリトマス試験紙なの』と美輪さんが語っており、私はこれにいたく心を惹かれた。
ところで私は美輪さんを尊敬している。音楽会にも何度も行ったし、お芝居も見に行っている。iモードの『麗人だより』という携帯公式コンテンツの会員でもある。しかしテレビをあまり見ないので『オーラの泉』は、知人に録ってもらって数回観ただけである。
2001年頃、一度お目にかかって言葉をかけていただいた事があるが、緊張しました。はい。
紫の履歴書
オーラの素顔 美輪明宏のいきかた
前者はご本人が書き、後者は豊田正義氏によるノンフィクションであるが、この2冊を読むと、美輪さんの幼少時から、「選ばれた者」故に偏見や差別の目で見られ続け、それでも自分を貫き通してきた生き方が記されている。半端ではない。また、常に美輪さんは、年齢、性別などに惑わされるのではなく心眼で見なさい、と言っている。コンサートのMCで、同性愛だということが家族に知られ、親族会議で罵られ、丁度そこに用事があって訪問していた美輪さんがいる時に、発作的にご不浄で首つり自殺を図った友人の話をする事がある。この話は「紫の履歴書」にも書かれているが、この話をする時の美輪さんの口調は、差別に耐えきれず発作的に死を選んでしまった友人への哀悼と、追い詰めた親族に対するやるせない思いをいつも感じるのである。
こういう経験から『私は、世界をはかるリトマス試験紙なの』という言葉が出てきたのだと思う。その人がどんなヒトなのか分かってしまう。
そうやって考えると「操体」もリトマス試験紙のようなものだ。何をためすリトマス試験紙かというと、その人の『熟度』と言ったらいいのか、あることに対してどれだけ『極めて』いるのか分かるのである。
操体は天然自然の法則に従っている。天然自然の法則は、例え世の中が変わろうと社会が変わろうと不変である。例えば終戦を迎えた日本は、一夜にしてその常識と価値観がまったく逆になってしまった。しかし、天然自然の法則(真理)は変わらないのである。
なので、操体の理念はあらゆる事象を説明することができる。息・食・動・想に環境のバランスから導けるのである。なので、ある事を操体で語るのは意外と簡単だったりするのである。例えば「操体って、動きのアートですね」と言えば何だか良く分からないが辻褄があってしまう。『道(タオ)は操体に通じますね』と言ってもおかしくない。それは真理だからである。「武術は操体に通じますね」と言っても変ではない。中には教育問題を操体で語る方もいる。
しかし、その「何でも入る大きな優しい器」ゆえに、語る側が今ひとつ勉強不足であっても語れてしまうというデメリットもあるのだ。また、「息食動想+環境」が語れれば実際に臨床をしていなくても、見よう見まねで本を見たものを試すだけでも「操体」を語れてしまうという状況を生んだ。器が大きすぎるのも不都合が生じるのである。
また、世の中には「もしかしてそれって空手?」 (私の最初の操体の先生は空手オタクでした・・・・この台詞がわからない方はネットで検索して下さい)と言いたくなるようなものが溢れているのである。広まるということは薄まって陳腐化するということでもある。柔道にせよ世界に広まったがあのようになってしまった。
基本の基本である『般若身経』もまともにできないのに操体の指導をしている(患者を診ている)ケースも多いのだ。
まあここで文句をたれても仕方ない。しかし私達は『臨床で結果をだせる、法則に則った操体』を後輩達に伝える義務がある。
話は戻るが、
操体を何かをある事象を引き合いに出して語るのは意外と簡単である。逆もしかりで、操体である事象を語ると、その本人がその「ある事象」をどれ程極めているかが分かってしまうのだ。
というか、その半端具合がわかってしまう。また話を聞いていると「いくらそれらしくても「あ、これは操体を『ソレ』に都合良く解釈しているな」というのが見える。
これをの某格闘家に聞いたところ、『格闘家でも中途半端で弱いヤツは治療とか、理論に走る』との事だった。
例えば操体で武術を語るのは比較的簡単だ。実際東京操体フォーラムの実行委員は格闘技をたしなむメンバーが少なくない。総合格闘家とか元力士とか、柔道整復師だったら有段者だし、極真出身も多い。しかし、何故か皆武術や格闘技で操体を語らないのである。
おそらくこれは私同様『操体は操体の土俵で語りたい』と思っているからではないか。
しかし、そのメンバーの中に一人だけ操体で武術を語ったり、武術を操体で語ってもおかしくない漢(オトコ)がいる。
平直行氏である(フォーラム相談役)。平氏は格闘技、武術を極めて学び続けているので武術を操体で語っても全く違和感がないし、操体で武術を語っても同じである。
フォーラム相談役の巻上公一氏も「声」で操体を語っても、操体でヴォイス・パフォーマンスを語っても聞いている側の「ハラに落ちる」のである。やはり「声」を極めていらっしゃるからなのだ。
また、田中稲翠(とうすい)先生という南画のアーティストがいる。彼女は長いお付き合いの私のクライアントだが、日本国内というよりも海外の生徒に墨絵を指導し、イスラエルで最初に個展を開いた日本人でもあり、今年もまた海外でご活躍予定と聞いている。稲翠先生とアートの話、操体の話をしていると、やはり「ハラにすっと落ちる」のである。
芸術と操体は同じだね、と我々は語り、操体とアートの談義をしたら止まらない位なのだが、やはり何かを極めた人がその専門で操体を語ると全然違う事に気がついたのである。
実行委員の日下氏は若い頃からヨーガ(私はヨガというが日下氏は「師統」に従って「ヨーガ」という)の修行に励み、インドで修行も積み、その後ヒプノセラピーやカイロプラクティックを経て操体にたどりついている。ヨガと呼吸法を極め、タントラの研究をライフワークにしている日下氏が、ヨーガや呼吸法で操体を語ってもやはり聞いている側の「ハラに落ちる」のである。
まあ、何かを極めた人はやはり何かが違うと言ってしまえばそうなのだが「天然自然の法則」「真理」故に通じるものがあるのだろう。
操体は『あることをどれくらい極めているか』というリトマス試験紙。
操体は操体で語りたい。語りつづけたい。それが私の目標でもある。