「エヴァンジェリスト」という言葉をきいて「にやり」とするのは、私のように1990年代後半あたりのMacユーザである可能性が高い。
その頃、Macユーザというのは本当にマイノリティだったのだ。デザイナーやドクターならともかく、ふつ〜の日本の会社では、ほぼ99%はWindowsだったからだ。勿論、会社ではWindowsで家ではMacという場合もあったが、大抵は「Macを使っている」というと、「へ〜」「すぐ落ちるんでしょ」とか「使えるソフトが少ないんでしょ」とか、不思議な反応をされた。
一方、Macを持っている、というと、懇切丁寧に様々なことを事細かに教えてくれる「Macの神様」みたいなヒトもいた。
私はそのような「Macの神様みたいなヒト」から習ったようなものだ。
その後、私も相当Macの素晴らしさを説き続けている。
当時、エヴァンジェリストというと「マッキントッシュの素晴らしさを説いてまわるヒト」の事だったのである。
エヴァンジェリストというのは、もともと宗教的な伝道者の事を指す。
Macの素晴らしさを熱心に説いて回る人達は、いつしか「エヴァンジェリスト」と呼ばれるようになった。
今では肩書きに「エヴァンジェリスト」を名乗っている方々もいるが、Macのエヴァンジェリスト達は、別にAppleからお金をもらっているわけでも何でもなく、Macの良さ、素晴らしさ、その個性を説いていただけなのだ。勿論Macの弱点などもふまえているのである。
それでも好きだ、というのがエヴァンジェリスト達の心根だ。
橋本敬三先生は「日本が世界に対してできることは、健康の輸出だ」と言われたそうだ。今の日本にできるのは、まさに文化と健康の輸出だ。
また、橋本先生は「操体の伝道者であれ」と言われたとも聞いている。私はこの言葉を師匠から聞いた時、『エヴァンジェリスト』という言葉を思わず思い出した。
地道な作業かもしれないが、90年代のMacのエヴァンジェリスト達の活動にせよ、20年たって実ったのだ。
私は地道に「楽ときもちよさの違いを認識せよ」「動診と操法の違いを明確にせよ」「快適感覚をききわけることが診断・分析であり、その快適感覚を味わうことが、すなわち操法(治療)である」と言いつづけているが、それが一般常識となることはそんなに遠くないはずである。