操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

なぜ性の真実『セクシャルパワー」は封印されつづけるのか(2)

人間の性行動は他の動物の「本能」のようなものとは違っており、その役割を十分果たすには、先輩から習う必要があったという。それが人間と他の動物との大きな違いだ。

性について若者たちに教える体制をこれから作り直そうというのなら、これまで長問、大人が目をつぶってきたはじめの二つの核心の一つ、《誰が性交そのもののやり方を教えるのか?》という問題を避けて通ることはできないだろう。
こういう肝心なところにだけ、「性教育」のプログラムに虫喰い穴があいたままになっている、そのワケを言おう。本来、その部分は、各地の共同体ごとに存在していた、専門の指南役が教えるのが人の世の習いだったからなのだ。

2012年はマヤ歴の「アセンション」である。どうなるかわからないが、地球的規模で価値観が変わると言われている。例えば貨幣価値、家族のあり方、結婚の形態、性に対する考え方の変化などだと言われている。治療法についても同じだ。

いずれにせよ「アセンションなんてこない」と思っている人程実際にアセンションに遭遇すると慌てるらしい。慌てないためにも今からソフトランディングしておく必要がある。

例えば「気功ではないが触れない臨床」がある。触れずに、距離も時間も関係なく診断がとおせるのだ。それをアタマから「そんなことできるわけがない」と、言っている場合ではないのだ。

この本では、マヤの性教育についても触れているので引用してみよう。

結婚適齢期以前には男女とも7、8歳から自然に親しんだり、美しいものに接したりして「自然の中で、自分もまた美しい」という、自分を愛おしむ心を育てたらしい。マヤの性教育はそこから始まっていたのだ。

たとえば中米の先住文化であった古代マヤの社会では、結婚してよい年齢に達した若者に対して、独身の性教育者が自分の体を使って、一対一で技術と心構えとを伝授する制度があった。この性教育者は神職の一つとされていて、共同体の人々から一目置かれる存在だった。
マヤの社会の場合、まず男性神官から実技指導を受けて資格を得た、女性の性教育者が一般の男性を指導するという順序になっていた。一般の女性にはそうした実技教習はなく、やはり女性の性教育者から、芸術的に表現されたイラストなとを交えて、知識のみ指導を受けておく。
そうして、いざ結婚相手が決まったら、既に実習を受けた婚約者と共に、彼の教育担当者だった女性からの個別指導的なアドバイスを聞いた上で、お互いに満足のいく性生活を作り上げていく、という流れであった。
これは一つの例で、また別の地域の共同体では、少しずつ違ったルールで行われていたと思われるが、少なくとも、若者にセックスを教えるのが女性の役目、というのは自然の理にかなったことに思える。
なぜなら、人が最初に肉体関係を結ぶ相手は、一人の例外もなく「母親」だから。母の膣を押し広げて外界へ転がり出て、母の乳房を愛撫し、全裸で抱き合う体験を通して、人は人を愛する心の下地を作る。また、だからこそ、育ち上がって新たに愛する人を、選び取る以前に、息子も娘も、母との肉体関係に連なる密着意識からいったん、切り離されることが必要になるわけだ。
もう一つ、セックスを教えるということに関して、女性が男性に、という流れのほうがより似つかわしい気がするのには理由がある。これまではあまり認められてこなかったが、女性の体に備わっている能力とは、町駅から大きな快感の波を産み出して、自分自身と性交中の相手との二人を丸ごとその潮の中に巻き込み、交わった相手に生命力を授けるところにある。そう、実は快楽に満ちた性交を始めるスイッチは、男性ではなく、女性の側にあるのだ。つまり、古代からの「性欲迷信」は、その逆であるように教えることで、庶民のセックスから真の快楽を奪ったというわけなのだ。
だから男性は、自分の体には備わっていない、女性の体の多彩な表現カを知り、その発揮のさせ方をよく学習する必要があるのだ。同時に女性も、自分の体の中でどのように快感が生まれるのかという仕組みについて、心得ておく必要がある。第2幕でご紹介した中国の古文書でも、天女が主に性の手ほどきをする役として登場したのは、この真実にのっとったものだったのだ。

マヤの性教育制度では、女性神官は実に一年近くもの期間をかけて、若者の指導を行った。つまり、それだけ人間の持つ能力をフルに発揮しての性交を実現するためには、学ぶべきことは沢山ある、ということだろう。
女性の体から、どのようにして快感を引き出してあげられるのか?また、女性の欲求には、月経と関連して、高まる時期と静まる時期との周期性がある。こうした働きに素直に篤嘆し、敬意を払うことをはじめに覚えた男性は、さぞかし妻に選んだ女性の体も、丁寧に取り扱うことができたことだろう。そこから、夫婦の営みの好循環が生まれるのだ。

さらに特筆すべきなのは、教育としての性交では、射精を行わないのがルールであったということだ。
精液について理解しておくために、膣外での射精を行うことはあったようだが、まずは不用意な妊娠を避けるパース・コントロールの技術を身につけておくことが重要だったためだろう。
現役教師と生徒との結婚が禁じられていたから、ということもあろうが、それだけが理由ではない。マヤの人々は、新しく生まれる子供は社会全体で迎え入れるもの、といそれぞれの夫婦が子供を作るにも、その時期を慎重に選ぶのが当たり前だったためだ
ということは、当時のマヤの男性は、満足のいくセックスを行う術を誰もが身につけていたのだと言えよう。

自然のサイクルを重んじていたマヤでは、五十二歳に達した人は、子作りから卒業することになっていた。そしてそれ以後は、子作りのためでないセックスを末長く楽しむことが推奨されていた。つまりマヤの社会では、のちにカトリック教会が罪だと教えた「生殖を目的としないセックス」を生涯楽しめる有益なものとして尊重していたのだ。

なんと若者は一年近くも時間をかけて学ぶのである。今は何でも『楽に手っ取り早く簡単に』が流行だが、一年かけて学ぶということは、マヤの人々が若者の性教育にどれだけ力を入れていたか、どれだけ大事にしていたかということがわかる。


マヤと日本の縄文時代には共通点があるそうだ。「蛇」信仰と、性を謳歌していたこと、平和を長いこと維持していたことなどである。このあたりは、またじっくりと勉強したいと思う。