操体法大辞典

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「気の幸福力 気心道とタオ指圧(書籍版)

気の幸福力―気心道とタオ指圧 (-)

気の幸福力―気心道とタオ指圧 (-)

 


以前こちらはPDF版で読んだのだが、書籍として改めて読んでみた。
前回もブログで紹介しているが、前回とは少し別なところが気になった。

「近年のスピリチュアリズムはなぜ浅薄か」というところがやはり気にかかる。
ヒーリング(癒し)を皆が求めているのはよくわかるのだが、やけにポジティブで明るいのだが、何故かうすっぺらいモノを感じるのは事実である。

これは、操体の「想」の実践を「明るく大らかに生きましょう」というのに似ている。現代は明るく大らかに生きることが大変(いや、現代と言わず)で、それができないから皆悩むのだ。明るく楽しいフリをするのも一つの手かもしれないが、果たしてそれで間に合うのか。
★実際のところ「明るく大らかに生きましょう」と声高らかにうたっているところは何か胡散臭いし「世のため人の為」とか「人様のお役に立ちたい」と言っているところも胡散臭い。

それだったら「想」の実践を「言葉を統制する」「感謝の心」に絞ったほうがより現実的なのではないか。言葉の統制は、いくら頭の中で罵詈雑言が浮かんでいても、「ありがとうございます」などのマジック・フレーズを口に出せばよいという「実践のすすめ」である。また、無理に明るく大らかにするのだったら「今日も元気で目が覚めました。ありがとうございます」と、シンプルに感謝するほうが実践しやすいのではないだろうか。

最近のいわゆる精神世界(スピリチュアル系)は、自己の内面に潜むネガティブな感情に対する内省が足りないものがほとんどのように思うのは、一人私だけでしょうか。最近身請ける多くのスピリチュアリズムは、美しいポジティブな言葉で飾られています。しかし、影と対決し、光と出逢うというテーマが見当たりません。

つまり「死」の問題を避けてるわけなのだ。また、遠藤先生によると、自分の内なる光しか見つめないと、「影」の存在(死や自分の中のダークな部分)を、外部に投影することになる。つまり、自分は光に満ちた正しい存在である。その代わりに、自分以外の「外」に「影」の変形である「悪」を投影することになる。
面白いことに、スピリチュアル系の方々の中には、仏像を拝むことができない方がいるらしい。仏様は神々しい存在であるが「あの世」の存在をイヤでも認識せざるを得ない。

橋本敬三先生は「みんな行くんだからきもちいいとこに決まってる」という名言を残している。師匠はよく「死ぬんだ、じゃなくて死ねるんだ」という。私はちょっと控えめに(笑)「お迎えがくる」くらいか。

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

 

先日「対称性人類学」を読んだ。仏教は宗教ではなく、哲学なのだと改めて認識。