操体の講習をやっていて、一年近く通っている方から、質問がありました。
「第1分析と連動って、どう関係あるんですか」という質問です。
かなり、マニアックな質問ですが、答えました。
まず、この方は「三浦先生の本を読んで色々やってみました」という方です。
しかし、私が
「操体においてきもちよさは探すものではない」
「操体においてきもちよさは求めるものではない」
「操体において、きもちよさは比較対称するものではない」
という話を毎回しているのですが、なぜか、
「きもちよさを探す」と「どちらがきもちいいか」という話になります。
これはどうしたものだろう、と改めて聞いてみると
大変残念ではありますが、これらの本には、
「きもちよさを探す」(さがしません)
「きもちよさを比較対称する」(比較対称しません)
「両方やってみて、楽な方ときもちいい方があったら、楽な方をやる」
(操体の場合は、楽よりきもちよさを選択します)
「両手合掌で右回旋した場合、右足に体重が乗って、右に傾く」(本来は、両手合掌で右回旋した場合は、左足に体重が乗る側屈になります)
その他、連動に関しても「??」というところがかなりあります。
まだあるのですが、このように、操体の理念から外れたことが書いてあるのです。
特に「両手合掌して右回旋の場合」ですが、これは般若身経の側屈と同じです。
私がこれを指摘した際「いろんな先生がいて、いろんなやり方がある」という意見もありましたが、操体法の基本、側屈を間違えるというのは、原理原則をねじ曲げているということで、色んなやり方がある、というのは言い訳にもなりません。
残念ながら、ご本人が、逝去なさっている今、今更修正などはしないと聞いています。
この方は「きもちよさを探す」と「きもちよさを比較対称する」というのを、この本から得てしまったのです。
(三浦先生の本には「きもちよさを探す」「きもちよさを比較対称する」とは書かれていません)
この本が出たのは、20年位前のことです。長年操体の本を読んで頂いているのはありがたいのですが「きもちよさを探す」「きもちよさを比較対称する」という「迷走分析」が刷り込まれていたわけです。
私が毎回毎回「きもちよさは比較しません」「きもちよさは探しません」「きもちよさは、からだにききわけるもの(主語は、からだ)」と言っていたのですが、長年読み続け、アタマに叩き込んでいた「きもちよさを探す」「きもちよさを比較対称する」のほうが強いのかもしれません。
一方「第1分析と連動」です。
第一分析(橋本敬三先生時代)も「全身形態は連動する」という言葉はありました。しかし、それは
全運動系は中枢神経を介して連動装置になっている。体の一部分を、ある目的に向かって動かすと、全系が協力的に動く。手足の指趾を単独に動かすことも出来るが、動かぬようにおさえつけておいて動かせば、連接関節が次々と協調して動き、全系に拡がることは、実験すれば一目瞭然である。(からだの設計にミスはない P206)
これくらいの記載のみで、どこをどう動かせば、全身がどう動く、ということは確立されていませんでした。
ただし、皆さん経験的に、膝二分の一屈曲位で、膝を左右に倒すと、首は膝と反対のほうに倒れる、というのは知っていたようです。が、これくらいです。
実際に、三浦先生が、手関節、足関節からの連動のシステムを明確にしたのは、2003年のことです。
また、この時ですが、多くの操体関係者が何と言ったかというと
「患者の動きは色々あって、パターンはない」と言ったのです。
しかし、実際は、
本来、人間のからだは(歪みがなければ)自然な連動が起こる。
しかし、歪みがあるため、自然な連動は起こらない(歪みがなくなれば、連動は「自然な連動」に戻る)。
症状疾患をかかえた(ボディに歪みを抱えた)患者の動きが、自然な連動にはならず、
傍目には「患者の連動は色々ある」ように見えるのです。
というわけで、久々に連動についてのレクチャーをしました。
たまにはいいものですね。