3月になったが雪が降ったりした。今朝、早朝外に出たら、誰かが道ばたに小さい小さい雪だるまを作っていた。葉っぱで目鼻がついていた。今月中に桜が咲くのだろうか?また、何で桜が咲くと必ず花冷えの雨が降るのだろう?そんなことを考えた。
クロス(十字)の縦は男性的な力、横は女性的な力を指す。
太極というものがあるが、それも絶対的には分化されておらず、共通の部分がある。男性と女性、その違いは染色体だけなのだ。
太極のマークを見ても、陰と陽はお互いに補いあっている。
「縦」と「横」のバランスが取れている事が大事だと思う。これは、『縦』を実行力とするならば、『横』を直感力、としてもいい。
男性的な力『実行力』について(私は車を買ったことがないのでよく分からないのだが)通常男性がやるのは、雑誌やカタログ、あるいはネットなどで細かいスペックを調べ、実際ショールームに行って試乗してから選ぶ。スペックで選ぶ傾向が多いという。
これ、実は男性には『直感で良し悪しを見る』力が弱いからだという。だから、女性のスリーサイズとか、数字にこだわるという意見もある(笑)
逆に言えば、女性は直感力が優れている。しかし、なかなか実行に移さない。これは本当だ。クロス(十字架)というのは、この力のバランスを指しているとも言う。
ところで、この「横」が暴走すると、どうなるか。
余所の家も自分の家の境もなく、人の心の中にまでずかずかと土足で入ってくる『オバサン』になる。特に子供を産んだ女性がそうなりやすいというのは歴史的事実である。これは自分が「分化」した経験から来るものであり、一方では他者(他のイノチ)との一体感を味わう素晴らしい体験だと思う。
しかし、度を過ぎると自分と他者の境界線が見えなくなってしまう。「一体感」は無意識が支配する忘我のエクスタシーの境地かもしれない。しかし、現実に生きる私達は忘我の境地から実際の地上生活を営む必要がある。
「縦」が暴走するとどうなるかは想像がつくだろう。
内藤景代先生が書かれていたが、これはポタージュと味噌汁のようなものだという。
ポタージュはそれぞれの形がなくなり、ミルクという媒体を使って混ざりあっている。これはこれで美味しい。一方味噌汁はそれぞれの具の組み合わせで個性がある。これもこれでいい。
ポタージュが原始的な混沌とした無意識、女性的な世界を表すとしたら味噌汁は自我に目覚め、個性をもってなおかつ調和しているという世界を表すのだろうか。勿論良し悪しの問題ではなく、ポタージュはポタージュの良さがあるし、味噌汁は味噌汁の良さがある。つまり、バランスということなのだ。どちらが絶対的に良くて、絶対的に悪いことではない。ポタージュが絶対的にいいわけでもなく、味噌汁が絶対的にいいのでもない。
★それぞれの違いを認めながらも、調和せよ★
◎◎以下は何となく感じたこと。
『ゼロイチ』とか『白か黒か』ということを思い出す。
残念ながらこの思考回路は女性に多いような気がする。実は全てをゼロイチで考えると、心身の疲労が激しくなる(勝間和代氏も書いている)。良いことがあっても必要以上に舞い上がらず、かといって悪いことがあっても、必要以上に落ち込まない、すべてをゼロイチで考えない、しなやかな弾力性が必要なのだ。
しかし、ゼロイチの極端な反対に位置するのが「何でも一緒」という考え方だ。
勿論全員ではないが、操体をやっておられる方々の中には「何でも一緒」「みんな仲良し」「誰にも嫌われたくない」という「よい子」が多い。しかし、この「よい子」の下に隠れているのは普遍的な不満と嫉妬のこともある。それが「変化」を嫌う「現状維持でいいじゃん」という守りの姿勢の場合もある。
なので、少数の先進者が「楽じゃなくて『快』」だ、というと最初は『みんなと意見が違う』と文句をつけ、多人数でやさしく(しかし執拗に)いじめにかかる。
そして、先を行く者が創始者の言葉を咀嚼して、その意思を伝えようとすると、「いろんなやり方があってもいいじゃないですか」「まあまあ」「みんな仲良し」と、その話を聞かないのだ。
あるいは「善人を装った礼儀知らず」な行動を平気で取り、『自由』と『放埒』を混同し、人に迷惑をかける。本人はその深層心理の中に『嫉妬』と『自分の知っていること、やっていることが実は真実ではない』ことを認めるのが怖いのだが、それを意識していないので、本人達は『当然のこと』だと思っている。
また、橋本先生の言葉を歪曲して、「自由」と「放埒」を混同し、自分の都合のいいように無責任に使っていることもある。橋本先生は「自由気ままに生きることが」自由だとは言われていない。
★「放埒」とは、好き放題で勝手気まま、他人のことは考えないまま、自己中心的な我がままな行動をとること、一方「自由」とは、自分の生き方や周りの人たち、社会に対して責任を果たしながらも、何ものにも捕らわれず他人に迷惑をかけることなく生きることです(自由と放埒はちがいます!美輪明宏より)
実は橋本敬三先生にせよ、医学の世界で『身体運動の法則』を何年も何年も書き連ねてきたが、無視され続けていた。それがある時何かの拍子でがらっと変わるのである。
しかし、世の中で「脳内革命」が流行ったり「快」ということが隠すようなことではなくなり、また堂々と「快」をうたうことができるようになると、「いじめ」をしていた方々も、最初はあんなに『快』を提唱した人をいじめた割には『快』という言葉をこぞって使い出す。見てみると、今操体をやっている方々で『楽』という言葉を提唱している人は殆どいない。皆『快』である。
あんなに「快」を否定したのに、ある時「快」はメジャーになった。
しかし、最初に『快』を提唱した人をいじめたので、『快』の本質をしっかり理解しないまま言葉だけ『快』を使うようになったのである。言葉では『快』といいつつ、やっているのは『楽か辛いか』という二者択一の動診、(楽と快との混同)これが今現在操体の世界を取り巻いている状況である。
勿論「楽」と「快」の間には太極の陰陽同様重複するところもある。だが重複するところと、違うところは認識すべきなのだ。をれを「ゼロイチ」か「みんな一緒、仲良し」の両極端の目線だけから見るべきではないと言っているのだ。
「皮膚」に関しても、橋本敬三先生が『運動系は・・皮膚をも含めた』と言われているにもかかわらず、今のところは無視状態である。が、そのうち何年かすると、今「皮膚」を無視している方々が一斉に「皮膚」に走るのかもしれない。そして、十分に皮膚の事を勉強せずに入るので、「刺激」と「知覚刺激のない接触」も混同して使うのだろう、ということは予想し得るのである。
私が書いていることが数年後、当たるか当たらないかはお楽しみ。