先日のことです。
ある方の個人レッスンをしていました。
仮にAさん(女性)としましょう。
操体はちょっとやったことがある(手技療法関係の仕事)ので、知っている鍼の先生が、N文協の操体の本を(リハビリ関係)参考にして操体をやっているとのことでした。
ご希望としては、やはり「快適感覚」「タイミング」などでしたが、リハビリ関係のN文協の操体の本は、モロに第一分析です。
第一分析は「楽か辛いか」「スムースかそうでないか」を分析します。ここでは、感覚を分析せずに
「左に倒れないから左がオバカさんなのね」(実話)というように、可動域が少ないから悪いとか、動きがないから悪いという「きめつけ」をしている場合があります。
また、「第一分析」では「快」は扱いませんが、その辺りを混同して、「可動域が大きい方がきもちいい」という勘違い(私も昔していた)をすることがあるので、注意です。
可動域が大きい≠快 (可動域が大きいイコール快ではないということです)。
快ではなく「楽でスムースでなんともない」【快でも不快でもない】。
Aさんは、感覚的には「過敏」とも言える感じでしたが、セルフケアの動診をやっていても、動きが早いとか、どうしても「楽な方に動かして瞬間急速脱力」の気配が見えます。多分いつもそのようなスピードでやっているのです。
そして、今までほぼ100パーセント「快を聞き分けられた」動診を行っても、動きに意識が行ってしまい、感覚を味わうどころではなくなってきました。
一緒にいた東京操体フォーラムのT本君が「アレ、やってみたらどうでしょう」と言ったので「そうだね、最終兵器を出すか」ということで、1人で行うセルフケアを指導しました。
私がもう一人の受講生を見ていると、後ろから
「あ〜、きもちいい」
という、世にも気持ちよさそうな声が。
振り向くと
「私は操体の神様が降りてきた瞬間に立ちあった!」という状況が繰り広げられていました。
これは、感動的です。
今まで未体験だった「快」のゾーンに入っているのですから。
★この辺りは、伸びてきもちいいとか、引っ張ってきもちいいというような、刺激的な快とは全く違うエリアに入っています。
ストレッチしてきもちいいとか、そう言うレベルを越えているんです。
宗教的なエクスタシー(法悦)も、このようなものかもしれない、と思います(以前、渦状波®を受けて2時間くらいエクスタシー状態だった女性を見たことがあります。
法悦とは、神仏(仏)と合一した悦びを表しますが、こういうものなのか、と感心したことがあります。
きもちのよさが降りてきたというか、回路が開いたというか、その後は、先程試しても動きが早すぎたり、動きに意識が行きすぎていたセルフケアが全部ばっちり「操法として通り」ました。
なお、ここまで素晴らしい「快」の味わい方は、そんなに頻繁に遭遇するわけではありませんが、先日
「操体って、気持ちよくって失神するんですか」という質問を受けて(最初びっくした)
「意識は飛ぶことがありますが、失神はしません」と答えておきました。
快適感覚で意識飛びの現象が起こる、というのと「気持ちよくて失神する」というのは、ニュアンスが違います。意識飛びというのはわりと短い時間です。