操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

「きもちのよさ」でジャッジしないこと

操体法の指導をしていると、たまに

「ちょっとしかきもちよくない」という言い方をする人がいます。

 

ちょっとしか、というのは、快適感覚が多いからいい、少ないから悪いとか、きもちのよさがあるのが○で、ないのは×であるという解釈の仕方です。

 

しかし、操体ではそういうふうには考えません。

 

実は「快」という言葉に囚われてしまうと

「ちょっとしかきもちよくない」発言が聞かれることがあります。

 

下記の図をみてください。

 

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この図をみると「楽な方にきもちよく」という指導は適当ではない(楽と快を混同している)ことがわかります。



快と不快と楽でなんともない、というものを図示したものです。

昔の操体(第一分析時代)は、楽と不快という二元論で成り立っていました。
第二分析、つまり「快を問いかける」という段になってきますが、未だに「楽と快」を一緒に混同している操体実践者は数多く見られます。

 

快・不快の法則というのは、ボディに歪みがある場合、動診などを行って感覚分析を行うと「快か不快を感じる」のです。つまり、どこかにアンバランスがあるからです。

凝った肩を揉んで貰うときもちいいのもそうですし、動かして痛い(不快)なのは、実は「アンバランスであり、動かしてみたり感覚分析を行うと、快か不快を感じる」のです。

 

一方、バランスがとれていて「楽でなんともない」というところもあります。

このエリアは、ニュートラルな状態なので、快・不快はありません。

なので、楽でスムースなのに、きもちいいですか、と聞かれてもわからないのです。

 

ここまで読んでいただければお分かりかと思いますが

「少ししかきもちよくない」というのは「きもちよさが沢山あったほうがいい」という損得勘定です。

確かに質の高い快適感覚を味わうのが、第2分析以降ですが、きもちのよさの多い少ない(これは、被験者自身の損得勘定です)ではなく「からだが、その快適感覚を味わいたいと言う要求があるかどうか」で判断します。

 

「アナタ」ではなく「からだ」です。

ここを理解しないと「ちょっとしかきもちよくない」ということになるのです。

 

また、先日セルフケアをやっている方から「動かしてみて、刺激(きもちよさが)がその部分にたくさんあったほうが治るんですか」と聞かれましたが、それは、ノーです。

 

操体はストレッチではありません。

ストレッチやヨガ的なものなら「背中のストレッチ」とか、脇腹のストレッチ、というように、ある特定の箇所を伸ばしたり刺激を与えたりしますが、操体は、ストレッチでも刺激でもありません。

 

敢えていえば、緩やかな連動が全身に行き渡り、柔らかいテンションがかかる、と言った具合でしょうか。

 

「オレをホワホワさせんじゃねぇ!」(byいのすけ)みたいな(笑)

 

よく聞くのは、温泉に入った後みたい、とか、ぐっすり寝た後みたい(個人差あり)とか。

 

なんともないのは「バランスがとれている」のです。

 

「楽でなんともない」というのも、あるのです。

かといって、楽でなんともないのに「きもちいいですか」と聞かれてもわからないのです(これは操者に問題があります)。

 

また「動かせば必ずきもちよさがある」という勘違いをしていることも多々あります。

 

「楽で何とも無く、ニュートラル」というエリアもあるので、動けば必ずきもちのよさを聞き分けられるということはありません。また、この場合、操者の介助補助や、言葉の誘導が甘いか、または「快・不快の法則」などを理解していないか、そもそも楽と快の違いがわかっておらず、言葉の上だけで「きもちよさ」を使っている場合が殆どです。

 

大昔(大昔の話ばかりですいません)、三浦先生の講習で、私を嫌っていた三浦先生の大ファンのおばちゃまがいたんですが(結構いじめられました笑)、この方と組んで練習した時、その人が

「あんたにやってもらってもちっともきもちよくないわ!」と、私に吐き捨てるように言ったことがあります。その人にとっては、それが私に対する最高の反発だったんだと思います(私は別に平気でしたけど)。

 

私はその時「あ、この人は、きもちよさの多い少ない、あるなしで操体を理解しているんだな(ちゃんと理解してないんだ)」と思いました。

そして「快でジャッジすると道をあやまることがある」と気がついたのです。

 

きもちのよさを聞き分けられて、それが質が高くて、それを味わうことができればベストですが、バランスがとれていれば、楽でなんともないこともあるんです。

 

また「きもちよけりゃなんでもいい」という極端なことを言う人もいますが、それもちょっとちがいます。

 

操体で言う「快」とは、「動診あるいは分析」の中において、からだがききわける「快適感覚」のこと。世の中の森羅万象の「快」のことではありません。

こうなってくると「快はなんでも操体だ」とか言う怪しい人も出てきますので、そうではないことを書いておきます。

 

補足:

なぜ「ジャッジしないのか」というと、本来は「快適感覚があるかどうかをからだにききわける」というプロセス(これは客観的な姿勢です)が、「あるといい。ないと悪い」という、判断・判定にすり替わってしまうのは、避けたいからです。

 

これを書いていると、

  • 被験者がきもちよさを味わってくれないとか、感覚のききわけができないとがっかりしてしまう
  • タロットで逆位置(リバース)がでるとがっかりしてしまう
  • 易で良くない卦がでるとがっかりしてしまう

 といった「がっかりした」話を思い出しますが、世の中、そんなに単純ではありませんし、この3つの「がっかり」には「感情」が含まれています。

 

操体の臨床家には「客観的にみること」が要求されます。

  • きもちよさを味わうことができない(と、客観的にみる)
  • リバースが悪いのではない(客観的にみる)
  • 易は変化するものであり、四大難卦にせよ、変化する(と、客観的にみる)

よく言うのですが

「股関節が曲がらないから、股関節が悪い」のではありません。
「股関節の可動域が少ない」と、客観的に見るのが、操体の臨床家です。