「からだにききわける」。操体の特長の一つです。
「あなた(私)」がききわけるのではなく、「からだ」です。
操体法基礎講座Aをやっています。また、操体ベーシック講習をやっていますが、
痛感するのは「あきらかにする」「区別を明確にする」ことです。
「楽と快はちがう」ということは長らく発信し続けていたので、最近はどうやら広まっているようです(まだまだですが)。
そして、最近もう一つ感じるのは「型」と「実技」の違いや、操体が臨床(治療、施術)として成り立つ条件としての「診断・分析」と「操法(実際の施術・治療)」の違いをはっきりとさせること、操者、指導者は当然ですが、例えばセルフケアをしたい人にとっても必要なことが、ますます分かってきました。
理由:操体は「快」であるということが一般的に知られてきた。
これです。
私が気づいたのは、割と本を読んでいるとか、身体論に興味がある方は、総じて「快適感覚」に対する感受性が強く、操体の施術を受けて頂いても、快をききわけるちからが優れているように思えます。
しかし、そういう方々に、
「からだの使い方、動かし方の基本(ルール)の型」として「般若身経」を指導すると、型を指導しているにかかわらず「あ、これはきもちいい」とかおっしゃるわけです。
いいですか。
まず「型」を覚えてもらうんです。「型」なので、からだを型の通りに操って頂き、それが無意識の動作になるくらいまでやって頂ければ身につきます。
平たく言えば「型」を練習しているので「きもちよさ」は、まだ早いのです。
型が無意識のようにできるようになれば「きもちのよさ」まで踏み込んでいいのですが「型」の時点で「きもちのよさ」に踏み込むと、動診と操法の区別がつかなくなります。
そして、ここで陥りやすいのが、なまじっか、快適感覚に敏感なので「きもちのよさを探す」と言い出すのです(私の経験上、間違いありません)。
で、何度も言いますが、きもちのよさは、探しても見つかりません。
何故ならば、操体法の第二分析は「やってみて、快か不快かききわける」からです。
また、操体では「からだ」が主人公です。「私」ではありません。
きもちのよさを、からだにききわける のです。
(主語はからだです)
しかし、きもちのよさを探すのは、誰でしょう。
「私」です。
そうです。きもちのよさを探すと、主人公は「自分」になってしまうのです。
そうなると「からだにききわける」という操体の臨床が成り立たなくなります。
操体法は 診断分析(動診)→ 治療(操法)という段階を踏むからです。
第一分析は
左右比較対称の動診→こっちが楽です(診断分析成立)→楽な方、やりやすい方を数回→再動診
第二分析は
一つ一つの動きに快適感覚の有無を問いかける(動診)→ある(診断分析成立)→快適感覚を味わう(操法)
般若身経(型)→ 般若身経(セルフケア)
型 → 自由組み手
動診 → 操法
些細なことだと思われるかもしれませんが、主人公が私(自分)なのか、からだなのか、その区別を明確にすることが、とても大事です。
そして、操体臨床から「診断分析(動診)」→「治療(操法)」という手順を省いてしまったら、操体臨床にはなりません。
このステップがないのが、慰安やリラクゼーションです。
否定するわけではありませんが、お客様が「肩が凝った」と言えば肩を揉み、「腰が痛い」と言えば腰を揉む。つまり、サービス提供者が、診断分析を行わず、顧客の言うことをそのまま行うとか、10分20分の時間に沿った、コース的なサービスを行うことが、慰安やリラクゼーションです。
操体を勉強しはじめたばかりの方、あるいは操体でセルフケアしたい方も、実は客観的に「主人公はからだ」「ここまでは動診」「ここから操法」のように「からだ目線」でやってみるとわかります。
この辺りのことは、本に書いても文章に書いてもなかなか伝わりにくいものです(感覚ですから)が、これがわかると面白くなってきます。
下図は、操体臨床が「三位一体」ということを示した図です。