- 作者: 田中泯,松岡正剛
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2013/07/29
- メディア: 単行本
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2013年8月14日、代官山蔦屋書店にて「意心伝心」の著者二人、田中 泯さん、松岡正剛校長のトークショーとサイン会が開催された。
師匠と東京操体フォーラム実行委員見習いT君と三人で出かけた。
蔦屋書店、すごい。一日遊べるではないか。
私はサイン会情報を得てすぐに申し込んだので、整理券番号は11番と12番だった。
★等身大だそうです。
私が付箋を貼ったところをご紹介。
最近ぼくは東日本大震災後に出た出版物にできるだけ目を通すようにしているんだけど、このあいだちょっと愕然としたことがあった。津波を体験した子どもたちの文集を読んだんです。そのとき「ああ、これではダメだ」と思った。大半の子どもたちが、そういった偶然による発見ではなくて、いかにも先生に教えられたようなことを書いている気がしましたね。七割以上の子が「ありがとう」とか「皆さんのおかげです」といったことばかり書いている。金メダリストのインタビューとおんなじなんです。
中略
この津波の文集は、いまのコンプライアンス社会、すべての商品に賞味期限がついていてありとあらゆる街角に監視カメラがあるような、そんな時代のコトバだとしか思えなかった。子どもたちがみんなでそんなコトバを使っていてどうするんだろうと思った。
この文集、私も読んで「ヘンだな」と思った。
というか、子どもだけではなく、最近の30歳前後の人のメールなり文章を読むと、
ちゃんと自分の意見を書ける人は書いているんだけれど「感謝」「ありがとうございます」という内容が非常に多いと思う。勿論感謝やお礼は必要だとは思うが。
また、注意を喚起した際にも「ありがとうございます」なのだが、その場合、お礼の前にまず反省だろ、と思うこともある。
本当に「街角に監視カメラがあるようなコトバ遣い」なのである。
何と言うか、人に嫌われたくない、波風を立てたくないような、自分の本心をずばっと表現できないような感じなのだ。コトバは「いいコトバ」を使っているのだが、この本でも「絶対自由のための稽古五箇条」にもある「礼節」が欠けているような感じがしてならない。自分が傷つかないように、他者を傷つけないように、自己防衛のために「いいコトバ」を使っているような気がする。
松岡正剛の「ひび」より
できるかぎり公私混同をめざす
これは大賛成。そもそもパブリックだけのために何かをするという感覚は全くないのだそうだ。
公私混同とちょっと違うかもしれないが「えこひいき」にも通じるものがある。恋愛は最高のえこひいきと言った賢人がいる。
ちなみに、公私混同とかコンプライアンス、とうるさい輩に限って、会社で公私混同しているとか、そういうことは結構ある。
真似るというのは、最高のエクササイズです
初心者ほど「真似をすると、自分らしさがなくなるのでは」という。
最初は真似から入るのだ。
「守」(師匠の真似をする)を終えていないのに、「離」の稽古をしたいというのは、
一番効率が悪い。自己流で一年やると、その後どんないい先生についてもそれを直すのに三年かかるのだから。
真似が完全に出来ると、自分のスタイルが生まれてくる。
今までの操体の講習で「自分のやりたいようにやっていいですか」と言った人が何人かいたが、続いていない。
「方法」について
方法には、いわゆる「メソッド」とか「メトード」と同じ意味の「方法」もあるんですが、「マニエラ」とか「マナー」という意味を含む言い方もありますよね。このマニエラとかマナーは、全身体的、全言語的、全風景的なものだと思うんですね。ぼくが「方法」という言い方をするときはこのどちらの場合もあるんですが、「方法としての日本」とか「方法としての世界」という言い方をしているときは、魂が入り込んでいる「マニエラ」「マナー」のほうで使っていますね。じつは職人は技法的なメソッドをマスターしながらも、もっと大事にしているのはこちらのほうなんです。
さきほどの泯さんの「分類したくない」という話ともつながると思うんですが、主題とかテーマとして世界とか日本とか自然を考えていると、どうしても近代がつくり上げた分類体系に縛られてしまいます。となるとそこを入口にして、なんとか思想でひっくり返すしかない。思想家というのはそればっかりやってきたわけですが、どうもこのやり方だけでは同義反復してしまうし、限界があるんじゃないか。そうではないやり方がきっとあるんじゃないか。そこからそういう主題を扱っている「方法」のほうに着目してみようと思ったんです。そうすると方法が主題を解放させていく。
再度引用。
このマニエラとかマナーは、全身体的、全言語的、全風景的なものだと思うんですね。ぼくが「方法」という言い方をするときはこのどちらの場合もあるんですが、「方法としての日本」とか「方法としての世界」という言い方をしているときは、魂が入り込んでいる「マニエラ」「マナー」のほうで使っていますね。じつは職人は技法的なメソッドをマスターしながらも、もっと大事にしているのはこちらのほうなんです。
私はこの青文字のところにぐっと来た。
私にとって、操体はメトードではなく、マニエラなのである。