操体には「バルの戒め」と呼ばれているものがあります。
- がんばるな
- いばるな
- よくばるな
に
- しばるな
を加えたりします。
今ではあまりありませんが、20年前くらいは「がんばるな」というと「自分はもの凄く頑張ってきた。だから今の自分がある。それを否定されているようで辛い」という方もいらっしゃいましたし、
「親からも学校からも周りからも『頑張れ』と言われて頑張ってきた。それを否定するのか」という意見もありました。
20年前くらいから、うつ病の人に「がんばれ」と言ってはいけないとか(これについては詳細は割愛します)、色々な話がありますが、ひろさちやさんの本の一節をご紹介しましょう。
じつは、努力に二種類があります。
ー自己肯定の上でなされる努力ー
と、
ー自己否定の上になされる努力ー
です。わたしは、後者のほうを「がんばり」と呼びます、これは本当の意味の努力ではありません。
「仏教に学ぶ『がんばらない思想』」
こちらを読むと、ひろさちやさんが「がんばらない」事を仏教的に説いても、やはり色々な反発(多くは自分が頑張ってきたことに対する否定と捉えている)があったようで、参考になります。
「からだの設計にミスはない」
に「救いと報い」という一節があります。41ページから48ページあたりです。
ここを読むと、若き橋本敬三医師が「がんばらなくていいんだ」と、目覚めた経緯がまとめられています。
最近、操体関係のイベントなどに参加したりすると、操体実践者の方々から「がんばります」という発言を聞くことが何度かありました。
「バルの戒め」を知らないのかなあ、と思ったりします。
この「救いと報い」「がんばらなくていい」というのは、操体の哲学を理解するにあたっては、とても大事なことです。
操体を学ぶのであれば、その辺り、ちゃんと押さえていただければなあ、と思います。
また、がんばらなくていい、という言葉を
「操体の指導者も、勉強は間に合っていればいいしがんばらなくてもいい」とか
「(操体は、がんばらなくてもいいと言ってるから)だらしなくてもいい」とか、
自分に都合がいい解釈をしている人がいましたが、それは違います。
がんばらなくてもいい、というのは「救い」。救いというのは、生まれる前から、救われている、なので、心配することはない、という、絶対的な安心感です。
(私はこれを縦軸だと想像します)
一方、橋本敬三先生は「救いを知ると同時に『報い』も知った」と書かれています。
これは、この世(仏教的に言えば娑婆)で生きるということは、良いことも悪い事も、全て因果応報であるということ。
魂は絶対的に救われていても、地上に生きている間は、自分の行ったことには、それなりの結果がついてくる(相対的)ということです。
(私はこれを横軸と想像しています)
ということは、がんばらなくてもよいから、といって、操体のプロや(もしくは医者が)間に合っている位の適当な勉強しかしていなければ、施術や治療の結果はどうなるでしょう。