操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

言葉の選択と言葉の統制

動診操法とすすめる場合、やはり言葉は大切だと思う。



「きもちよさ」というのは本人にしかわからない感覚なので、それをからだにききわけさせる、というのが操者の役割であり、一番使うのは言葉の誘導だからでもある。



というのは、最近操体に関連する記事などを見ると、あきらかに何だか歪められている記述が目立つから(本当は前からあったのだが、最近ネットの発達などにより余計目立つようになった)なのだが。



その一つが、操体は脱力した時のきもちよさを味わう、というもの。確かに脱力後の爽快感はあるし、この時になおしをつけてきてもいるのだが、「動いてみて(あるいは皮膚を微妙に動かしてもらって)」きもちよさをききわける、というほうがメインである。この勘違いは多分「たわめの間」で思い切りこらえて(たわめる、ではなくこらえて、となる)ドスン、と思い切り力を抜いて「ハァ」という力を一気に抜いた後の気持ちよさから来ているのではないか。脱力してため息をつくから気持ちいいのではない。



もう一つは、武術系の雑誌や身体運動系に関わる方が書いたり説明したりしている記事。「操体は気持ちよさを探して自由に色々動けばOK」や「気持ちよさを探って動く」という記述があるということだ。



操体は「きもちよさをさがす」「さぐる」のではない。「動いてみて、快適感覚があったら味わう」のだ。



考えうるに、これは身体運動能力に長けた方が「きもちよく動けて」しまうため、だと思う。



また、例を挙げると師匠に以前操体を学んだ河野智聖氏は「快気法」の対談で「きもちよさを探す」という言葉を使われていたし、快気法その中できもちよさの比較対照をされていた。「どちらが気持ちいいか、きもちいいほうに」という具合にである。



これは「快気法」ということで河野氏が体系づけたものであるから、それはそれでよいと思うが、「秘伝」誌などは河野氏が毎月連載をされているので、多分操体と混同しているのだと思われる。



操体法と快気法はそこが違うのだ。

操体は「きもちよさ」を探して動いたりしない。



師匠曰く、橋本先生は「きもちよさを探すとか探るという言葉は使っていなかった」と言われるし、(比較対照で楽(快)方向を探す、とは言われたらしいが、これは意味が違う)



『橋本先生もこれらの言葉は知っていたが、敢えて使わなかった。それには意味がある』



「きもちよく動いて」というのは、きもちよさが確認(動診から操法に移行した後に用いる。

つまり、被験者が気持ちよさをききわけ、味わっている状態にあるなら(すでにきもちいいのだから)用いてよい。



しかし、感覚のききわけをしていないうちに「きもちよく動いて」と言われても動けないのが事実なのだ。きもちよく動いて、という誘導で動診操法が成り立つ場合(例えば先輩の達人諸氏)

は、手が練れていて、触れたり声をかけられた時点で被験者はまるで催眠術にかかったか甘い罠にかかった獲物(例えは正しいか??)のようにきもちよくなってしまうのだ。

これは私も経験がある。



名人達人に受けると、その手が触れただけできもちいいのだ。

なので、一般人でそういう宝のような手を持っていない場合は、適切な介助を与え、言葉と介助で誘導を与え、快適感覚をききわけさせ、「きもちよさがききわけらたら、教えて下さい」と、被験者に確認し、被験者が「ハイ」とか手で丸をつくるとか、頷くとか、何か合図があるかなど、確認してから「きもちよく動いて」「一番きもちのいいところまで、からだのツクリを操って」と言えばよいのだ。(実際には「動き」という言葉は余り使わない。何故なら動く、という言葉より、操るとか表現する、という言葉のほうが表面的な固い動きではなく、柔らかい内側からの動きを連想させるからである)



こういう名人達人の姿を見て、それを鵜呑みにして真似をして、被験者の感覚を確認していないのに「きもちよく動いて」という指導をするのは早計というものだ。



こういう指導をして「患者が動いてくれない」という悩みを抱えている人は後を絶たないのである。



また、自由に色々動く、と言うことの条件を考えてみると、末端(手関節、足関節)から動きをとることをメインとしている操体(勿論、逆連動といって、からだの中心、腰から動きをとらせる

場合もあるが、基本的に「全身形態が連動するには、末端が動き、からだの中心腰が動いて首が動く」というプロセスを経る。



「きもちよさを探して色々自由に動く」となると、



末端から動けないのだ。



どうしても身体の中心、腰から動く、または手関節なり足関節を固定して固定したところから動く、ということになるので、連動の派生する順番がかわる。



百歩譲って気持ちよく動けてしまう人(たまにいる)が、操体をやると、自分が動けてしまうが故に他の人(一般であるとか、身体のバランスを崩している人)も「きもちよく動ける」と思って

しまうのだと思う。これは身体鍛錬系とか身体運動系のワークをしている人ならいいと思うが、いかんせん、私達が診るのはバランスを崩して症状疾患を訴える方が多いので、基本的に最初から

「きもちよく動けない」ケースのほうが多い。



指導の際はそれに留意すべきである。



更に言葉のアヤになるが「きもちよく動いて」となると、どうしても「きもちよさを探して動いて」

しまうことは否定できない。動いてみなければきもちの良さがあるのかないのかはききわけられない

からでもある。



これはほんの些細な違いに思われるかもしれない。

しかし、プロとしてははずせないところでもある。



最後にもう一つ気になるのは「きもちよさがでてくる」とか「もうすこしできもちよさが出そう」と言うケースだ。



これは比較的操体経験済みで、なおかつ快適感覚を味わったことがある人に多いように思う。



○「きもちのよさがききわけられたら、教えて下さい」

×「きもちよさが出てきたら、教えて下さい」



橋本先生は「きもちよさをからだにききわければいいんだよ」と言われた。「きもちよさがでてくればいいんだよ」←文脈もちょっと変だが、こうは言われなかった。



橋本先生にならって、「ききわける」という言葉を使えばいいのだが。



何故「出てくる」という言葉が出てくるのか考えた。私が考えるに、今までに操体を受けたことがあり、快適感覚を味わった経験がある、あるいはエクスタシー(色々考えられるが、例えば性的なエクスタシーなど)の経験をもとに、「探して」しまうので「あ、出そう」とか「きもちよさが出てきそう」というように

言うのではないか、という気がする。(念のために言っておくと、操体で味わう「きもちよさ」というのは性的なものとは全く異質である)



「(きもちよさ)が出てきそう(なので色々探している)」

「(きもちよさ)が出てきたら(探して、動いてみて、あったら)教えて下さい」というニュアンスになると思うのだ。



細かいことかもしれないが、被験者は操者の言葉の指向性を受ける。

操者がそのように思っていなくても「きもちよさが出てきたら教えて下さい」という問いかけをすれば『さがして、うごく』というように受け取ってしまうこともあるのではなかろうか。これは指導する立場にあっては留意したい。



「言葉を統制できるものを賢者という。言葉を統制できない者、これを愚か者という」by Dr. K.Hashimoto