「操体」という言葉をググってみると(googleで検索することです。念のため)、多くのサイトが見つかる。
それをたまに覗くのだが、やはり『きもちよさを探す』とか『気持ちよさを探る』という言葉が目に付く。
「きもちよさを探す」とか「探る」という表現は、動診と操法の区別がついていないのだ。
初期の正体術に酷似した操体(名称が付いていない頃)から1983年以前は、実際動診と操法の区別が明確ではなかったようだ。
どういう事かというと、操体法の中でもポピュラーな『足趾からの足関節背屈』(つま先上げ、というケースもある)をやる場合、膝窩の圧痛硬結を探る(これは触診なので探ってもいいのだ)痛いところがあったら、そちらの足趾をすねに向かってそらす。そして脱力させる。
これに快適感覚はともかく「楽」を当てはめても少しおかしい。
つまり「膝窩に圧痛硬結があったら、つま先を反らせて脱力させれば、それが消える」という理由で行っていたのである。
つまり、本来なら、つま先を反らせる動きに快か不快かききわけさせるべきなのに、それを行っていない。
また、楽を通すにせよ硬結があるほうの足のつま先を背屈させるのか、底屈させるのかという分析は行っていなかったと思われる。
そういう歴史があったため、操体自体動診と操法の区別がついていないケースが多いのかもしれない(というか、多い)
私はこのブログを臨床家向けに書いている。
なので、そうでないのなら、趣味や健康体操という認識でされているのなら、楽(な動き)と快(適感覚)を混同して『楽なほうに動かしてストン』と瞬間急速させる1983年以前の操体でもいいと思う。
しかし、体を臨床でおこなっている、あるいは人様のからだをお金を頂いて診ている方は、クライアント、あるいは患者様への最低限の作法とマナーとして、動診と操法の区別位はつけるべきなのだ。
プロなら違いを認識すべきではないか。
結論を言おう。
操体法の創始者、橋本敬三先生は気持ちよさを探して色々動く、とは言われていない。
痛みから逃げろ、辛いことから逃げろ、とは言われたが、
きもちよさを探せ、とは言われていない。
もう一度認識してほしい。
ある動きを試してみて、本人にしかわからない感覚分析を行ってきもちよさがききわけられたら(これが診断)、それを味わう(これが治療)のが操体の臨床なのである。
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『きもちよさをききわける』と言われていたのだ。
『きもちよさでよくなる。きもちのよさをききわければいいんだよ』という言葉である。
ちなみにこれは、1983年(橋本師86歳)の時の言葉である。
師には書き下ろしの著作はなく、投稿寄稿論文を編集したものか、シンポジウムで発表したものを編者がまとめたものがあるのみである。それらは全て1983年以前に書かれている。
つまり操体が「楽」をとおしていた時代のものなのだ。
それ以降の橋本敬三先生の操体に対する考え方の違いは、当時側にいた者に伝えられたのみである。