操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

操体と「救いと報い」

操体を勉強して、凄いなと思うのは「救いと報い」という概念をはっきりさせているところだ。
簡単に言えば、死のうが生きようが、魂は完璧で、最初から救われているということ。報いというのは、この世に生まれて自分がしたことは、良いことも悪い事も、全部自分にはねかえってくること。

この区別がついていないと、妄想苦(もうぞうく)といって、ないものをあると思って悩み苦しんだりする。例えば、自分は死んだら地獄に行くんじゃないかとか、ヒトが自分の事を悪く言ってるんじゃないかとか。猛烈な嫉妬をするとか。

勿論生きて行くからには色々考えたりするけれど、妄想苦の度合いが大きくなると、心が壊れてからだもこわれてしまう。

何も「妄想するな、考えるな」というわけじゃないけれど、妄想苦まではいかないようにしようよ、と言いたいのだ。

頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな

は、操体の重要な教えである。
今、地震と津波の後で「がんばろう」と言う言葉が飛び交っている。
悪い事ではないが、頑張る前に悲しんで怒るというステップも必要だ。
中には頑張れないヒトもいる。
頑張れ頑張れだけではなく、頑張れなくてもいい(自暴自棄になってもいいわけではない)。

それを認めるのが、救いと報いだ。

しかし、操体を学び、救いと報いの区別を学んだ人達が、妄想苦にとらわれてしまったケースを私は何人も見ている。
違いがわかっている分、そちらに行ってしまうのだろうか。
救いと報いの違いを、認めないほうが、何でも人や外部環境のせいにできるからだろうか。
自業自得ではなく、誰々が悪いとか、ついて行けないとか、言えるからだろうか。

大抵は、からだか心のどちらかが壊れる。
からだが何故壊れるのか、妄想苦にとらわれて心が壊れるのか、一番分かっているはずなのだ。

または、お金というエネルギーの妄想苦にとらわれるかだ。(これらは密接に繋がっていることがわかった。お金は波動、エネルギーだと考えるとよくわかる)
借りっぱなしで返さないのでは、エネルギーは循環しない。
例えば、学びに対価を払うのも、エネルギーと波動の循環だ。

私とて、自制して自分につねに言い聞かせなければ、妄想苦の世界に足を踏み入れてしまうかもしれない。いや、つねに境目にいるのかも。