10月28日土曜の朝、早朝到着したフォーラム実行委員のMさんの車で、葛岡霊園に向かいました。橋本敬三先生の墓参です。
★葛岡霊園にて自撮り。うしろの丸い石が、橋本家のお墓です。
その後、全国大会の会場に向かいました。戦災復興記念館です。
午前中は一般口演ということで、奈良の北村先生の
生体に生じた「歪み」と、その「動きに伴う変化」との相関性
そして次は、温古堂の橋本千春さんによる「初心者への操体法の伝え方の工夫」
が発表されました。
この「初心者への操体の伝え方の工夫」については、私も現在マニュアルを作成中です。
というのは、操体は「感覚」を扱うものなので「ひとくくり」というわけにはいかず、また、身体を鍛えているアスリートに指導する場合と、スピリチュアル系の人に指導する場合、年配の方で、どこかに故障がある場合など、カスタムメイドの指導が必要だからです。
問題点がまとめてありました。
① 「頑張るのが運動」という概念からすると、操体法は物足りないと感じる
② 通常の体操は左右同じにやることが当たり前とされているので集団の時に、どちらか楽なほうだけということが難しい
③気持ちよいが見つけられず、程度がわからない。呼吸との関連付けがむつかしい
④「変わりましたか」という成果の評価を見つけるのが難しい
これは、操体指導をしていれば、ぶち当たって当然の壁です。
下に、マーキングしておきます。
① 「頑張るのが運動」という概念からすると、操体法は物足りないと感じる
② 通常の体操は左右同じにやることが当たり前とされているので集団の時に、どちらか楽なほうだけということが難しい
③気持ちよいが見つけられず、程度がわからない。呼吸との関連付けがむつかしい
④「変わりましたか」という成果の評価を見つけるのが難しい
赤で太字下線をつけてみました。
操体法は物足りないと感じる。これは、運動の概念はさておき「運動充実感」があれば、物足りなさは防げます。
具体的に言うと、例えば膝の左右傾倒という動診がありますが、これは本来、操者の介助補助を用いて、脱力に導くものです(我々は抵抗と言わずに介助補助と言っています。介助と抵抗、どちらがからだに優しいか、は判断にお任せします)。
しかし、これを「一人」で行う場合、そもそも「操者のヘルプ」があって、感覚のききわけを助けているので、「一人」でやっても「面白くない」場合が多いのです。これが「物足りない」ということです。
操者が倒れる膝を上手く介助してくれるので、全身形態に連動が生じ、感覚のききわけが可能になります。しかし、単に膝をぱたぱた左右に倒しても、大抵の方はそれほどシリアスな問題を抱えていなければ「楽で何でもない」(ニュートラル)なので「わかんない」とか「物足りない」というわけです。
これに対しては「膝の左右傾倒を自分で行っても、運動充実感が得られる方法」というものがあります。
以前「倒す方の膝の下にクッションをかます」と習ったという人がいましたが、その方に、「モノを使わない方法で、膝の左右傾倒」を試してもらったところ、「充実感がある!」という回答をいただきました。
このように「本来は二人(操者と被験者)で行っていた動診を、一人でやっても運動充実感がないため、物足りない」というケースが多々あります。
② は「両方やっといたほうがお得なんじゃないか」という「欲」です。
③ 「気持ちよいが見つけられず」というのは、当然です。
きもちよさは、探して見つかるものではありませんし(せいぜい動かして痛くない方です)、ましてや「どちらがきもちいいか」と聞くようなことはあってはなりません。
何度も言いますが「どちらがやりやすいですか」という「二者択一」には答えやすいのですが、「きもちよさ」は比較して分かるものではありません。
「楽な動き」と「快適感覚」を混同して指導するから、受講生が混同するのです。
きもちよさは「ききわける」ものです。
「この動き、きもちよさがききわけられますか?」と、比較対照しないで、一つ一つの動きに問いかけないといけません。
なお、初学者に操体を伝える場合、守破離ではないですが、最初は「身体運動の法則」という型を指導します。
この場合は「きもちよさ」という言葉は用いません。
「楽か辛いか」「やりやすいほう」という、二者択一を用います。
般若身経が理解できたら、順を追って、「快」に進めます。
最初から、運動分析に感覚分析を持ち込むので、混乱が起こるのです。
呼吸との関連付けが難しい。
これは、橋本敬三先生が晩年「呼吸は自然呼吸でいい」「呼吸を意識すると、感覚のききわけが鈍るから」という話が参考になります。
ちなみに、ヨガの独習が何故難しいかというと、動きと呼吸の関連付けが細かいからです。本を見ながらやってもよく分からないのはそのためです。
なお、私達は、呼吸は呼気も吸気も鼻呼吸にしています。
やってみるとわかりますが、吸うのも吐くのも鼻呼吸だと、とても優しい感じがします。
「万病」に「ハラの座った男になる」みたいな例で、腹式呼吸の図が載っています。
あれは、寝る前に、腹式呼吸でハラを練るという紹介で、別に動診時に腹式呼吸をしろというわけでもないと思います。
実際、呼吸を意識すると、感覚のききわけが著しく鈍るので、関連付けが難しいというのは当然ですし、敬三先生が「呼吸は自然呼吸でいい」と仰っているのだから、自然呼吸でもいいのではと思います。
なお、調子がわるい方に、腹式呼吸を指導するのは、指導者が「無知」であるとしか言いようがありません。
「変わりましたか」
これは、私も駆け出しの頃は「あ〜、しつこく聞きすぎちゃったかな」とか、結構悩んだものですが、これ、大事です。
もしもですよ、どこか痛めて操体を受けに来て、終わった後「どうですか?」と聞いて「変わりません」「全然わかりません」と、言われたら、お金を頂けないじゃないですか(笑)。これはプロとしてはまずいですよね。
勿論、これに対しての対処法はあります。
そして、これらは教室や複数の方相手のこともあるかと思いますが、ワタシの場合、個人レッスンで指導することが多いです。
複数教室の場合は、まずは「守」(身体運動の法則、般若身経)という「型」を指導します。「きもちよさ」は置いておいて「やりやすいほう、楽なほう」を指導します。
しかし、個人レッスンの場合は、各人の「感覚の聞き分け方」が、分かるので、最初から「快適感覚」に突入します。
言わば「極上の快」を最初に味わって頂いて「アタマ」「意識」を飛ばしていただくと。そうすると、問答無用でカラダが反応します。
その際、いわゆる第一分析と第二分析を連続して受けていただくと、殆どの方が、「楽と快の違いが分かった」と言って頂けます。
操体を「運動分析」(比較対照)で捉えれば「簡単」と言えるかもしれませんが、操体を「感覚分析」で捉えると、「人それぞれ違う感覚」を扱うのですから、そんなに簡単簡単とは言えないのです。
私が担当している「視診触診」講座ですが、講習に参加している受講生同士だと、どうしてもわかっているので、操者役の誘導がヘタでも動いてくれてしまいます。なので、「操体全く初心者に指導する(受ける方も操体初心者に徹してもらい、不親切な指導に対してはクレームをつけてもらう)」というスタンスで、実習させます。
続く