操体において「快適感覚」はとても重要です。
これについて語ると長くなりますが、私のFacebookのお友達の
Tomo Totaniさんの投稿をご紹介します。
「快」に対するスタンスが明確に書かれています。私はこの投稿を読んですぐに、Tomoさんに「シェアさせてください〜」とお願いしました。
牛の世話。
かわいいからなでたくなる。
撫でられるのは嬉しいだろうと思い撫でる。
嫌がる個体もいる。寝床が糞で汚れているから掃除する。
清潔な方が嬉しいだろうと思い掃除する。
清潔にしてもらうことよりも静けさを求める個体もいる。管理をするのは楽だけど、心のツボをつくのは難しい。
他のものの快を決めつけるのは不快となり、
他のものの快を読み取り寄り添い援助することこそ快の増幅を生む。今までこの当たり前のことに気がついていなかった。
最近になってようやく気がついた。人生のヒントをまたひとつ教えていただいた。
ありがたいです。
「他のものの快を決めつけるのは不快となり、他のものの快を読み取り寄り添い援助することこそ快の増幅を生む」
これ、我々操体実践者の基本中の基本です。
決めつけてはいかんのです。
また「管理するのは楽だけど」というのは、
「操体をパターン化するのは楽だけど」とも読み替えられます。
パターン化して「きもちいいだろう」ときめつけている(操体実践者がいる、あるいは操体を指導している)という話はよく聞きますし、残念ながら、私のクライアントも「きめつけられてイヤな目にあった」という経験を持つ人が何人もいます。
「きもちいいですか」と聞かれて、そのセンセイに悪いので
(基本的に私達は「きもちいいですか」とは聞きませんので悪しからず)
我々、東京操体法研究会で学んだ者は
「きもちよさがききわけられますか」と聞きます。
★どちらがきもちいいですか、とか、楽な方にきもちよく動け、なんていいません。
★私、↑ これを15年以上言い続けてますが、少しは浸透してるんでしょうか(笑)
「きもちいいです」と答えたら
「何パーセントですか」と聞かれて「50%くらい」と答えたら、センセイにムッとされた、という話も聞きました(それも、一人ではない)。
きもちよさ、というのは「個々の感覚」です。
同じ事をやっても、感覚は違うのです。
この人にとってはこれが快だけど、この人は違う。
なので「快」はきめつけてはいけないのです。
道でたまに会うくろねこさん。