東京はまだ非常事態宣言の最中ではありますが、なんとなく人出も多くなってきたような気がします。
さて、操体をやっている人の中には「きもちよければ何でもいい」というスタンスの方もいらっしゃいます。
私達のスタンスは「からだが味わって見たいという要求を満たしている快」を、選択する、ということです。
簡単に言えば、きもちよさにも「ちょっときもちいいね」から「法悦的なきもちよさ」まで、色々あるわけです。
そして、それをさらに「からだ」目線で分類すると、からだが
「うん、このきもちよさ、採択」と
「きもちいいけど、却下」
というように「からだが味わって見たい快」まで、確認します。
「快ならなんでもいい」のではなく、「質の良い、味わって見たい快」を選択するということです。
操体にも「きもちよければなんでもいい」派と「質の高い味わって見たい快」を選択する場合があることです。
私自身は勿論後者の「質の高い味わって見たい快」派ですが(師匠がそうですから)、「きもちよければなんでもいい」というのは、非常に大雑把に見えますし、私がよく遭遇するのは「きもちいいですか」と聞きすぎるということです。
「操体を受けて困ったことベスト3」に入るのは
「きもちよくないのに『きもちいいか』と聞かれて困った」「正直に行ったら先生が不機嫌になった」という話ですが、
これ、何度も書いてますが、我々は「きもちいいですか」というような、不躾な聞き方はしません(からだへの問いかけ方は、操体法東京研究会の講習でミッチリ習いました)
あるところで習ったという方は「きもちいいかどうか、たくさん聞けと習った」と言っていましたが、クライアントがいやがるのは「わかんないのに感覚を聞かれる」ことなのです。
きもちよくも何とも無く、もしかすると、センセイの力が強すぎて痛いかもしれないのに「きもちいいですか」と何度も聞かれるのは、ゴーモンです。
(以上実話)
そして、もう一つ。こういうやり方をするセンセイ方は「からだに問いかけて」いるのではなく「本人に聞いている」のです。
(我々は「からだ」に問いかけています)
今日、また書いてみたのは「きもちいいですか」と聞かれまくってウンザリしたというクライアントの方がいたからです。
と、書いてみましたが、私が現在臨床で行っているのは「第五分析」。
操体は「きもちよさ」を超越しつつあります。