私が最初にタロット・カードを手にしたのは小学生の頃だった。
今もそのカードは大事に持っている。
後にアメリカのハリウッドの大通りの、ロン毛のメタル兄ちゃんが店番をしていた、今でいうスピリチュアル系の店でもタロットを買った。
トートを買おうかと迷って買わなかった。
そして、トート・タロットと言えば、クロウリーである。
私はメタル好きなもので、クロウリーというと、オジーの「ミスター・クロウリー」を連想し、頭の中にあのイントロが流れちゃうのだが。
OZZY OSBOURNE - "Mr. Crowley" Live 1981
それはさておき、これは日本で一番の魔女、ヘイズ中村先生が著した、クロウリーのタロット、トート・タロットの入門書である。
カードもついている。
ちなみに、易の卦との対応も書いてあったりして、非常に興味深い。
易とタロットはどちらも「卜占(ぼくせん)」にカテゴライズされるので、相性がいいのかもしれないし、クロウリーの少し東洋趣味にも関係あるのかもしれない。
易を勉強している人も是非ご一読を。なお、売れまくっているそうなので、お早めに。
ちなみに私の断易の師匠、東海林先生とヘイズ中村先生はコラボでセミナーをやったこともあるし(わたくし、参加しました)、東京操体フォーラム相談役、ミスカトニック先生もヘイズ先生とセミナーを開催したりという感じで、私も全くご縁がないわけではない。
内容の素晴らしさと深さは当然ながら、私は今回、前書きとも言える、トート・タロットの勉強法についての、ヘイズ先生の文章にとても感銘を受けた。
ちょっと長くなるが、引用させていただこう。
トート・タロットを手にしたほぼ全ての人に共通する反応が、ひとつある。それは「いったいどうやって使い方を学べばいいのだ?」という当惑だろう。 タロットカードに小さな解説書がついてくることがもあるが、本当に最小限の情報しか記載されていない。 その解説書だけで使いこなせるようになるのは難しいうえ、読めば読むほど膨大な学習が必要であり、しかもそれをとこか始めればよいのかさえ見当がつかないという実感が増 すばかりなのだ。 参考資料として、作者クロウリー自身が著した『トートの書』が存在してはいる。本来ならば、作者自身が書いた解説書ほど、心強いタロットの参考書はないものだ。 だが、『トートの書」 には、非常に難解な魔術用語や殆ど何の説明もなく所狭しと詰め込まれて いるうえ、 中略しっかりとした基礎知識がないかぎり『トートの書』を片手にトート・タロットを使おうとしても、ますます何が何だかわからなくなってしまうというのが正直なところだろう 。 たとえるなら、トート・タロットを入手した人は、見たこともない絢爛豪華なフルコース・ディナーのテーブルについているのに、 どこから食べ始めたらよいのかわからないような状態なのだ。 美しいカードの正しい使い方や、深遠な意味を理解して、神秘的な知識を貪欲に吸収し、満腹になるまで堪能したい!という強い欲求にさいなまれているのに、 目の前の料理を切り分けるナイフやフォークがどこにも見当たらないばかりか、おいしそうなことはわかっても、 実際のところ何の料理なのか見当もつかないので怖くて食べられない、と途方にくれるばかりである。 そのため、多くの人が、カードは買ったものの使わずにしまい込むか、 時々取りだして眺めるだけのコレクターズ・アイテムにしてしまうことになる。逆に、 知識的な飢餓状態に耐えることができずに、 こんなに資料がそろっていないのは、このタロットには学習が不要だからだ、自分の感性で自由に使って良いのだ! という、ぶっ飛んだ発想にいきつく人も少なくない。 確かに理論は無視して感性だけでもなんとか使用できるのが、タロット・カードの利点の一つではある。しかし、。そうした感性重視、理論無視の立場を取ると、 自分が気になった情報だけを取捨選択するようにもなりやすい。 中略つまり、たんなるタロットという単品料理ではなく。これを学べば、西洋神秘学の全貌も理解できるほど栄養満点のフルコース料理なのだ。だが、あまりにも皿数が多いため、 多くの人は自分が消化しやすそうな部分、おいしそうにみえるエキセントリックな部分だけをつまみ食いしている状態だ、 と考えるとわかりやすいのではないだろうか。 別の角度からみれば、理論を無視して感性だけで読み解こうとするのは、 せっかくのフルコースをファスト・フードのように取り扱ってしまうに等しいともいえるだろう。 これではあまりにももったいない! では、このボリュームあるフルコースに、消化不良を起こさずに挑戦するにはどうしたらよいのだろうか。 当然すぎる答えかもしれないが、好き嫌いをせず、ひと皿ずつゆっくりと、ということしか手段はない。 地道に学ぶしかないのである。
★赤字下線は畠山による★
これ、操体とよく似ている。というか「体系づけられたもの」を学ぶ際には必要なことだ。
「何だかすごそう」「きもちよさでよくなる」「自分でできる」という感じで、本を買ってみる。本を見ながら人にやってみても、自分でやってみても「きもちよさ」がわからない。自分には操体は無理なのかなとあきらめる。
または、理論をぶっとばして感性のみで、自分の得意なところだけつまみ食いしようとして、他の手技療法と混ぜようとして失敗する。
★いいとこどりは、こける、のだ。
「いろんな先生がいるからいろんなやり方があっていい」(勿論いいのだが、基本理念は外して欲しくないし、セクハラや決めつけはNGである)のもよく考えることだ。
創意工夫は必要だが、それが、高齢者に後屈をさせて瞬間的に脱力させるとか(普通に考えても危険)、「きもちいいですか」というAV並みにしつこい(失礼。我々は「きもちいいですか」とは聞かない))「きもちよさの押し売り」はよくない(これらは実話です。講習会で話すと皆笑うけど、事実なのだ)。
最近は色々な操体の名前を聞くが、どうも理論的ではないような気がしてならない。
実技オンリーで理論は二の次というか、理論なしで、感性でやっているのではと思うところもある。
結局はひと皿ずつゆっくりと、地道に学ぶしかないのだ。
最初から渦状波®をやりたいとか、息診をやりたいというのもわからないではないが、やはり、物事には順序というものがある。
慌てて「一年で全部習得して来年は開業したい」というのは、消化不良のもとになるののは間違いない。