操体・あるいは操体法を学んでいると「不自然の自然」という言葉を聞くことがある。
勉強していると、この言葉が染みつくんだなと思う。
最近、秋のフォーラム開催に向けて、古い動画を掘り起こしているのだが、数年前、関西で開催された、三浦寛先生の講義の動画が出てきた。
その中では、実行委員のT澤さんがモデルをやっており、非常に美しいフォームで、般若身経を演じている。
と、そこである人(操体指導者)が、彼の姿勢にケチをつけるのである。
彼は、背中を鍛える系のスポーツをやっていたので、背中が広い。よくボクサーなどは、前からみると普通に見えるけれど、背中からみると驚く程背中が広い、ということがあるが、そんな感じだと思って欲しい。
ボクサーとかって、背中の筋肉が発達しているので、見ようによっては、猫背に見えることがある、というのは想像できるだろう。
その、鍛えた背中を「猫背に見える」とケチをつけている動画をみながら思ったのは、
「この人は、操体を勉強してんのに、不自然の自然っていうことがわがんねぇのか?」「バランス現象を理解しとらんのか??」ということだった。
★流石に数年経っているので、理解してくれていることを切望する。不自然の自然、バランス現象を理解せずに、操体を指導するのは如何なものかと思う。
この動画は何度も見ているのだが、現場に居合わせた私は、昨日のことの様に思い出すのである。
さらに、以前来ていたクライアントの娘さんのことを思い出した。
その方は高齢の、腰が90度近く曲がったお母様を連れてきていたのだが、二回目か三回目の時、
「母はこのように腰が曲がっていますが、操体法で腰が真っ直ぐに伸びないでしょうか」と、言ったのである。
気持ちはわからないでもないが、この90度に曲がった腰が、このお母さんの自然な姿なのである。勿論、操体を受けて頂くことによって、少しは姿勢が変わるかもしれないが、ご高齢故、無理矢理骨格を矯正するのは危ない。
勿論、そういう矯正をするところがあるのは知っているが、私はそういうことはやらないし、操体関係者なら分かっていただけるだろう。
最近では、世の中の人達が、いかにして「歪み」を、悪いモノとして扱っているのかについて、改めて考えている。
ある受講生と話をしていて「歪みをとらなきゃいけない」という発言があったのだ。
- 歪みは悪い。だから、歪みをとらなきゃならない
- 左の股関節が曲がらないから、左の股関節が悪い
- 今、姿勢が悪くて猫背なので、あと5年したらものすごく姿勢が悪くなるんじゃないか
★操体では「左の股関節が右と比べて屈曲しにくい」というように、ありのままにみて、良い悪いの評価はしないし、可動域があるからといって良いとか、ないから悪いという言い方もしない。更に言えば「動かさないと固まっちゃう」という脅かしもしない
しかし、操体では歪みは必ずしも悪者とは考えていない。
なぜ、ボディが歪むのかというのは、橋本敬三先生の時代から、操体は明確な答えをもっている。
それは「最小限責任生活」である「息食動想」の四つのどれかのバランスが崩れたり、外部環境によって、ボディに歪みが生じると言っているのである
なぜ、歪むのかが分かっていれば、対処法もわかってくるし、相手(歪み)を目の敵にしなくてもすむ。
例えば、どちらかの肩が上がっていて、脊柱が弯曲して、骨盤が傾いていたら、それは、からだが健気にも「そこまでして立位を保っている」という姿勢なのだ。
また、首が左右どちらかに傾けば、目線を水平に保とうとするので、どちらかの肩を上げて首の角度を調整し、目線を水平に戻そうとする。
どちらかの肩が上がれば、人体は繋がっているので、脊柱や骨盤、下肢でバランスをとって、立位を保つことになる。
また、スポーツ選手などは、特定の部位を使うので、いわゆる「歪み」という点でみると、歪みが見られることもある(しかし、この歪みをとってしまうと、スポーツ選手としての技能が奪われてしまうこともある)。
一般の方が「歪みは悪いモノ」「歪みは除去しなきゃならないもの」という刷り込みは根深いものがある。
まあ、悪いモノ、という恐怖感を与えたほうが、ビジネスは成り立つかもしれないが、それは操体的ではない。
「不自然の自然」「バランス現象」という言葉は、もっと噛み砕いて広めたいなと考えている。