操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

原始感覚を目覚めさせてから「快」へ

すごく昔の操体法の本を読んだ人が、

「もう、瞬間的に全部変わるの!」くらいの大期待をして来られることがあります。

 

確かに、私も今までに何件か「えっ?」と思う程の変化を見たことがありますし、三浦先生のところでは、行きは車椅子でやってきて、帰りは歩いて帰った患者さんの姿を何度も見たこともあります。

 

しかし、大抵は「息食動想+環境」のバランスを崩して、時間をかけて、からだを壊しているのだから、そんなに劇的な変化を求めるのは性急というものです。

 

以前、三浦先生のところに、図書館で借りたという「操体法治療室」を持った若い男性が来ており(私は後ろで見ていた)

 

至高体験がしたいんです』と、言っているのを聞きました。

 

私が想像するに「快」→「至高体験」みたいなことを考えていたのでしょう。

実際、渦状波®で、至高体験(宗教的エクスタシーっぽい人を見たことがあります)が、これは、その人の体質や感受性にもよる(被暗示性とか)でしょう。

 

かといって、いきなり治療室にやってきて、治療も受けずに?至高体験したいと言ってもねえ。

 

結局その人はお茶を飲んで帰ったような記憶があります。

 

そして「きもちよさがわからない」「すごい変化がない」と言って「自分は操体に向いてないんじゃ」という人がいます。

 

これは、操者の指導の問題も勿論ありますが、「すごい期待」をしていらっしゃる方もいるんだな、と感じる事があります。

 

この話題は三年に一度くらいは私の前で起こるので、そろそろこの時期かな、と思ったりもします。

 

それは「快」に関する、過度な期待です。

 

大前提として、操体で言う快とは、生活や世界の中に存在する大きなくくりの「快」ではなく操体臨床時に、からだがききわけ、味わってみたい要求を満たす快」ということです。

 

「きもちいいなら何でもいい」とか「快は全て操体だ」というような乱暴なカテゴライズではありません。

 

また出すのは気が引けますが、その昔「人を殺すのが快だ。快楽殺人も快ならば、どうなんだ」という変な人がいました。橋本敬三先生もおっしゃっていますが、人に迷惑をかけたり、過度にならないのが鉄則です。快楽殺人というのは、あきらかに人に迷惑というか、犯罪です。

 

最初に行っておきますと、操体で味わうことができる快は、我々が「憶の快」と呼んでいるものです。性的な快とは異なります。

 

このあたりは、アタマで考えずに、体験して体感していただくのが、早道です。

 

「考えるな。感じろ」by ブルース・リー

 

一方、快を識別するには「快か不快か」を選ぶ力「原始感覚」が必須です。

現代人は「正しい・正しくない」「損か得か」という選択肢で生きているのと、アタマを使いすぎて「原始感覚」が鈍っています。

 

例えば、自分の舌よりも、ネットの「○○ログ」を信用したり、並んでいるお店だから並んでみたり、というように、自分で「快不快(好きかきらいか)を選ぶチャンスが減っているのです。

 

なので、本来ならば、快適感覚のききわけにすぐ入りたいのですが、そもそも「原始感覚(快か不快かききわけるちから)」が鈍っているので、それを甦らせる必要があります。

 

原始感覚を蘇らせる一番の方法は何かというと「快を味わう」ことです。

 

私自身は、これに一番マッチしているのが「足趾の操法」だと思っています。

 

初診のクライアントの場合、カチカチに緊張しているとか、本人が気がついていなくても、全身が緊張している場合が多いのです。

このような場合は、操法を行っても、こちらが意図した通りにはいかなかったりします。

 

例えば、つま先をすねに向けて反らせて、それから脱力(急速脱力ではない)を促しても、力がはいったままであるとか、膝を傾倒させて、力を抜かせても抜けない(瞬間急速脱力ではない)、本当は全部抜いて欲しいのですが、ピョコン!と両膝を真ん中に戻してしまうとか「緊張」が操法の進行を妨げることがあります。

 

なので、緊張が強いとか、初回は、足趾の操法など、比較的操者がアプローチするものからはじめ、緊張をほどいて、原始感覚を蘇らせることからはじめなければなりません。

 

ところが、アタマで考える人は「いっかい受けたけど、よくわかんない」と言ったりします。

 

この「アタマで考える」のを吹っ飛ばすのが「左脳とばし」です。

これは、かなりぶっ飛びますが、一人だけ、施術の最中ずーっと喋っていて、たまに意識が飛ぶのですが、あとで「きもちよさってよくわかりませんでしたー」という人はいました。

 

「本人」は気がついていなくても「からだ」は、反応しているのです。

アメリカの医療ドラマで「患者はウソをつく」という決まり文句があるそうですが、「からだはウソをつかない」のです。

 

操体臨床における快」というのは、感覚ですから、学習する必要があります。

 

最初から「失神するくらいの快」を期待してはいけません(笑)。
「処○なのにめちゃくちゃ○度が良くて初○○から○じまくり」とか、「失神するくらいのめくるめく快感」は、映画とか本とかの中のお話です。

この話をすると笑われますが、実際にこういう期待をしてくる人がいるのです。

 

実際、初めて受けて宗教的エクスタシー、みたいな人もいますが、数としては非常に少ないことです。

 

しかし、最初から「エクスタシー」にいかないからと言って「私に操体は合ってない」というのは性急すぎるというものです。

それはあまりにも残念です。
「失神するような快感を得られなかったので、私には向いてない」というくらい(あ、笑ってます?でもホントなんですよ)なんです。

 

また、これも面白いのですが
「きもちいいけど、ちょっとしかきもちよくない」という人もいます。
人間、きもちよさに対しては、あまり寛容ではないというか「めちゃくちゃきもちいい」とか「失神するほどきもちいい」レベルでないと認めて貰えないのでしょうか。
裏を返せば「快」に対する期待が高いのかもしれません。

 

面白いのは、足趾の操法の反応です。

 

最初「なんともないです」

だんだん「きもちいいけど、ものすごくきもちいいわけじゃないです」

2ラウンド目「ぐ~」(寝ている)

3ラウンド目「すんごくきもちいいです~」

同じ「足指をもむ」でも、1ラウンド目と2ラウンド目では、感覚が違うんです。

そして、これは不思議なのですが、足趾は1ラウンド目よりも2ラウンド目、2ラウンド目よりも3ラウンド目、というように、回数を重ね、快を味わえば味わうほど、きもちよさの質が高くなってくるのです。

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