あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
東京は、本日快晴。良い天気に恵まれました。
今日は午前中豊川稲荷に吉祥札を頂きに行き、帰りに往診の初仕事でした。
さて、先週の日曜から、東京操体フォーラム実行委員ブログで、一週間私が書いています。
テーマは「私の操体ズッコケ体験」です。
まずは三日分まとめてお送り致します。
写真も貼ってあるので、写真をご覧になりたい場合は、リンクからどうぞ。
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初日
こんにちは。畠山裕美です。
今回は「私のズッコケ操体体験」ということで(すいません。発案者は私です)、お送り致します。
まず、最初に操体関係でずっこけたと言えば、高校二年の時、別冊宝島「東洋体育の本」を読んだ時です。
私はすでにその頃、足裏反射とか、エドガー・ケイシーとか、太極拳とか気功とか、ヨガとか、手技療法ワールドに足を突っ込んでいました。ムーとかも読んでましたね(って、今と大して変わりません)。
東洋体育の本 (別冊 宝島)
東洋体育の本 (別冊 宝島)
メディア: ムック
私は中学から大学まで、某女子大付属の学校に通っていたのですが、とにかく本を読んでいました。
「学内で年間一番本を借りた人」になったこともあります。
本と言っても、何でも読む派で、マンガはもとより、ミュージック・ライフとかロックショウとか、図書館にあったアメリカのティーン向けの雑誌から、池波正太郎から、とにかく何でも読んでいたような気がします。図書館は、最後のあたりは「棚の端から読む」とかやっていました。
というのは、今のようにネットがなかったので、情報源が限られていたこともあるのかなと。
また、昔は今のように、テレビが一家に複数台あることは珍しく、チャンネル権は両親にあり、私はテレビと言えば、時代劇か、洋楽番組か、親が寝てから(爆)「必殺」シリーズや「チャーリーズ・エンジェル」とか(今と趣味が全く変わっていないことに今更驚愕)見ていました。テレビよりも本だったのです。
また、今もありますが popeye というのがありますね。今は若者向けファッションマガジンですが、昔は、「アメリカ西海岸のカルチャーを紹介」的な雑誌でした。何故、知ったかというと、KISSのポール・スタンレイがpopeyeの創刊号を持っている写真を見たからです。
今でもそうですが、ポールのファンの私は「すわ、ポールが持ってるなら買わなきゃ」とpopeye誌を買いました。そうなると「宝島」とかも買うわけですね。糸井重里さんとか、あの辺りが活躍していました。
「別冊宝島」は文章型部ムックというか、一冊一テーマというのが特徴です。
私はその前からヨガの研究と独習(どんな高校生だ)をしており、太極拳にも興味があったので「東洋体育の本」を手にとったわけです。そこで見たのが、気功家の津村喬氏が書いていた、操体法についての説明でした。
数ページくらいの短いコラムで、イラストで「基本運動」が紹介されていました。
最初の私の印象は「じじくせ~」「抹香くさ」でした(すいません)。
(また、津村氏が100キロ越える巨漢だったことを知っていたことも関係しているかもしれません)
もしかすると、「東洋体育の本」の、操体法についてのコーナーを、三浦先生が書いていたら、操体法についての世の中のイメージは少し変わっていたかもしれません。
若い頃は、昔なら沖雅也、今なら岡田将生似だったからです(笑)
(NHKの朝ドラ「なつぞら」を見た人からの情報です。。)
私も、もし「東洋体育の本」に、三浦先生の写真が載っていたら「じじくせ~」とは思わなかったでしょう。
次に私が操体に出会うのは「操体法治療室」です。
操体法治療室―からだの感覚にゆだねる
操体法治療室―からだの感覚にゆだねる
作者:寛, 三浦,昭宏, 今
メディア: 単行本
表紙裏に、おじいちゃん(橋本先生)を囲んで、若者が二人写っていました。
それが、今先生と三浦先生です。
この辺りが、ずっこけどころです。
二日目
私が最初に操体を習ったのは、三浦先生ではありませんでした(岡村さんしかりですが、他の操体を知っているからという利点もありましたし、操体の色々な面をみることが出来ました。これも大事な修業の一環だったと思っています)。
当時通っていた整体の学校(秋葉原)の通学路に「操体法」という大きな看板を出しているところがあったり(津田温古堂)、学校でも操体法の特別授業があったりして、わりと勉強には良い環境にありました。
私は当時「操体法治療室」は読んでいたものの、秋葉原の「津田温古堂」には行く気にならず(毎日前を通っているのにね)、三浦先生に連絡しようかと色々考えている時に、その学校で操体法の特別講義が開催されることを知り、早速申し込みました。
この時、教えてくれた先生はK先生と言いましたが、熱心な先生で、仙台の温古堂に行ってみたりしていたそうです。
後で聞いたところ、三浦先生のところに行って治療を受けたそうですが(勿論どんなことをやるのか偵察)、渦状波を受けて寝てしまい、気がついたら寝ていて何をされたのかわからず、という話でした。
この先生の勧めで、橋本敬三先生の本を熟読し、教えて頂いた「いわゆる基礎」と「応用(連動操体っぽいもの)」を修練しました。私の場合、実際に人様のからだを借りて練習を積むことができたので、K先生に習ったことは、ほぼ完璧に再現できるようになりました。
この時私が習得したのは、「快方向に導く」とはいうものの、やっぱり後で考えると、二者択一の楽な動きだったんだなあ、と思いますが、ピンポイントで痛みを取るとか、即効性はものすごくありました。
そこから開業までは省きますが、当時「オンナが院長の操体専門?」だからどうか知りませんが、結構「お手並み拝見」とか「道場破り?」っぽい感じでやってきて、その即効性に驚いて「教えてください!」ということになった人が結構いました。
というわけで、私は三浦先生に操体を学ぶ前に、自分で講習を持ち、また、1998年には既にHPを持っており、操体のポータルサイト的な情報を流していたので、書籍を書く幸運にも恵まれたのでした。
結局は、三浦先生の臨床を目の当たりにして「快を問いかける操体臨床とはこういうものだ」と、ズッコケた挙げ句、目からウロコが落ちまくり「痛みがとれるとか、即効性があるのがいいわけではないよね、と、こちらは10年以上封印していました(後に、D1'として、甦らせました)。
三日目その後「私のHPで三浦先生の本を紹介させて頂いても宜しいでしょうか」という手紙を三浦先生に送ったところ、丁寧なお返事を頂きました。
その後、1999年の全国操体バランス運動研究会東京大会でお世話になり、東京操体フォーラムを設立しました。
初期は、三浦先生と私の他にも色々な先生がいましたが、何せ皆社長なので、全くまとまりがつかなかったのですが、私はこの間に、三浦先生の実技を見て
「今まで自分がやっていたのは『快』と言いつつ、実は楽か辛いかだったのだ」
ということに、愕然としました。
そして、当初?の予定通り、三浦先生に改めて弟子入りしたいと思ったのですが、当時の私はすでに受講生はじめ一門を抱えており、当時のパートナー(私の影響で操体をはじめた)には、猛反対されました。
その時の私の悩みは
私が院長であり、私のほうが先に操体の勉強を始めたのに、どうして『何でダンナさんが院長じゃないの?』とか『ご主人のマネして操体をはじめたの?』とか『○○さんの奥さん』と言われるのが、めちゃくちゃ苦痛だったのです(笑)
「三浦先生の講習に参加するなんて、絶対に許さない」とも言われたのも我慢できませんでした。
なので、離婚届けを書いて、母にもハンコを押して貰って「ハタケヤマに戻ります」と言いました。(かなり割愛していますが、背後に壮大なドラマを想像してください笑)
損か得か
正しいか正しくないか、
で考えたら、損だし、正しくないといった方がいいんでしょうが、
私は「原始感覚」に従ったということです。
「このまま相手の言うことを聞いて、一生我慢するつもりか?」という、自分自身への問いかけに答えを出したということです。
多分、そのままだったら、精神を病んで死んでいたような気もする(原始感覚です)のです。
それが8月。私は9月から開講の、三浦先生の定例講習に参加したのでした。
また、操体には、それだけ自分の情熱をかける価値があることもわかっていました。
その前から「塾SOTAI」に来ていいよ、と三浦先生には言われていたので、何回か参加させていただきましたが、そこ(塾)で出会ったのが、半蔵さんと岡村さんでした。
それから2年後、三浦先生と私とで、定例講習とは別に、プロ向けの「臨床講座」というのを開催しましたが、その第一期生として入って来たのが友松さんです(先週のブログ参照。テープレコーダーを回していたのは私です)。
こうやって考えると、今、フォーラムの実行委員をやってる人は、かなり「ふるい」にかけられた、厳選されたメンバーだということがわかります。
その後、改めて三浦先生と私とで、新生「東京操体フォーラム」を立ち上げたのです。