操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

「快・不快」「心に聞く」

あれ?どこかで似たような言葉を聞いたことがあるような??

 

 

「やる気が出ない」が一瞬で消える方法 (幻冬舎新書)

「やる気が出ない」が一瞬で消える方法 (幻冬舎新書)

 

「原因はあなたの心の中にあるのではない」というオビがついています。

 

「快・不快」ではなく「正しい・正しくない」「損か得か」という生き方をしていたり「本当は不快だけど、人の顰蹙をかうのがイヤだから我慢する」ということをしていると、いわゆるバグが起こり、無気力状態が起こるのです。

 

また、我々のようなプロが「ご自宅はこんなことをやってみてください」と言っても「ダメそうだからいいです」とか「自分でアレンジしてやってみたけどダメです」というケース、結構あります。

 

それは何故起こりうるのか。「万能感」というヤツの仕業です。

「快・不快」ではななく、自分のモノサシでジャッジすることを万能感、といいます。

 

「万能感」とは、、端的に言ってしまうと、自分主体の考え方になっていて、すべてを自分の思い通りにさせようとする感覚のことです。万能感を持っている人は物事を自分基準で「ジャッジ」する癖がついています。前章でも述べましたが、「快か不快か」という判断基準で物事を捉えるのではなく、「快だけど周囲から反感を買うと判断してあきらめる」「不快だけど今やめたら努力が無駄になると思って我慢して続ける」など、自分のジャッジで「快・不快」を捻じ曲げてしまい、バグが起きているのです。

しかも自分が「万能感」を持っていることにはなかなか気づけないケースが多いため、余計に事態をややこしくしてしまいます。

 

 

 ここでは「心」を例にあげていますが、からだも同様で、快か不快か、ではなく「かずをこなしたほうが効きそうだから」とか「辛くても痛くても我慢すれば治りそうだから」「やりにくい方や痛い方を余計にやれば良くなりそうだから」と、

 

いわゆる「欲」(損得勘定)で色々やると、捻じ曲がってバグが起こるわけです。

 

そして、我々操体指導者は「からだにききわけて、教えて下さい」という言葉をよく使います。

 

それは何故か。

 

  1. 「この操法、もう一度やってみたいですか?」
  2. 「回数の要求はありますか?からだにききわけて、教えて下さい」

 

という問いかけ方があります。1は「本人」の「思考」に聞いているので、損得勘定が働いて「もう一回やったほうが効きそうだし、回数が多いほうが得な気がする」ということで、アタマで考えて「(しばらく考えて)う~ん、もう一度お願いします」

 

となります。

 

2は、「からだにききわけて」と、「からだ」を主語にしています。

不思議なことに、「からだにききわけて」という言葉を使うと、言葉がからだに伝わるわけです。

 

一体なんのこっちゃ??と思う方のために、説明しましょう。

 

ある時、九州の鍼灸師柔道整復師の方が「きもちよさで良くなるなんて本当か。信じられないから一度操体を受けたい」と、東京にやってきました。

 

足趾の操法をやってみたところ、爆睡していらっしゃいました(気持ちよさそう)。

その後、起きた時に「如何でしたか」と聞いたら「不快だった」と答えました。

この時、私の受講生も同席していたのですが、その答えを聞いて皆吹き出しそうになったのです。

「あんなに気持ち良さげに寝てたじゃん(爆)」

 

快適感覚とかきもちよさに対して、懐疑的な方だったので、「きもちよくて爆睡した」と認めるのはイヤだったのでしょう。

 

その後、その方は三浦先生の臨床を受けました。

 

渦状波®を受けて、やはり爆睡(きもちよさそうに)。そして臨床が終わって声をかけても爆睡しているので、弟子が「終わりましたよ~」と、からだに軽く触れたところ、目を覚ましました。

「如何でしたか。気持ちよさそうに眠っていらっしゃいましたね」と弟子が尋ねると

「全然きもちよくなかった」

「よく眠っていらっしゃって、お声をかけても起きられませんでしたヨ」

「目を開けたらいけないと思って我慢して目をつぶってたんだ」

 

これは非常に分かりやすい例ですが、たまに「きもちいい」というのを頑なに拒む人がいます(勝負してるわけじゃない)。

 

主に中年以降の男性ですが「オトコたるもの、そんなに簡単にきもちよさに籠絡されてはならん」とか「そんなに簡単にきもちいいとか言ってはいかん」という主義があるのかもしれません。

 

つまり、からだは「きもちよくて(はたからみてもきもちよさそうにみえる)爆睡して、いやされている」のに、意識(アタマ)は、「そんなことがあるわけない」と、拒否しているということです。

 

これを理解していないと、本当は体は大喜びして癒されているのに、本人の意識がそれを認めておらず、施術者に文句を言い、施術者は「本当は、からだは十分に癒されているのに、本人の意識から文句を言われる」ということになるのです

 

なので、我々は最初から「本人の意識」に聞こうとは思っていません。

「からだにききわける」のです。

 

 

そして「心に聞く」ことですが、

 

いちいち悩まなくなる 口ぐせリセット

いちいち悩まなくなる 口ぐせリセット

 

 この本には、著者が催眠療法の先生に出会い、催眠療法を受けて人生が変わった話が載っています。

最初は「アルコール依存症のカウンセリングに応用できればいいな」という軽い気持ちで参加し、先生がオーラ全開のヒーラーっぽくない人(普通のサラリーマンのおじさん)だったので、やめようと思い(笑)、最後に催眠の被験者になるという話が出て来ます。その経験が著者を変えるのですが、

「心よ」というキーワードをつけて、自分に問いかけるという手法が生まれます。

 

これは私達が「からだにききわけて、教えてください」の「心バージョン」ではないかと思いました。

 

ちなみに、私の周囲でも「心よ」というキーワードをつけて自分に問いかけるという話は、最初「?」という感じでした。

 

そして「なるほど」と思ったのは「アタマで考えていることと心は違う」という話です。

 

みんな揃ってやらなくてもいい

運動指導で思い出しました。

 

ある時、デイケアサービスで働いている人から電話を頂きました。

私が1999年に書いた本(改定版を出したい)を読んで下さっており、デイケアや入所している人に指導していらっしゃるとのこと。

 

「一つ問題がありまして」

「何でしょう」

「みんな、揃って一緒にやってくれないんですよ」

 

「????」

 

体操的なものを想像すると、みんなで一緒にやらなきゃ!と思うのかもしれません。

 

「あ、それでいいんです」

「各自が自分のペースでやればいいんです」

「みんなで揃って一緒にやる必要はありません」

 

「それが、操体です。体操じゃないですから。自分のペースで、自分の感覚に従ってやればいいんです。こっちの人が寝転がっていて、こっちの人が起きていてもいいんですよ」

 

「あっ。そうですね!」

 

指導者の立場としては、みんな揃って動いてくれて、揃って脱力!というのを期待していたのかもしれませんが、みんな一緒に動きを揃えてやる必要はありません。

操体なんだから。

 

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健康運動指導士資格更新研修に行く。

2月17日は、操体の講習のお休みを頂いて、健康運動指導士の資格更新研修に行って来ました。

東京操体フォーラムのメンバーの中では、香さんと私が持っている資格です。

要は、医療機関などで、運動指導(メタボ指導とか)ができる(すごくざっくりしていますが)ものです。私が取得した時は、管理栄養士さんとか、看護師さんとか鍼灸師が結構多く受講していましたね。

 

実習では、心電図を取るとか、そんなのもありました。

 

私がもう一つ持っている「公認運動指導者(スポーツプログラマー)は、どちらかといえば「スポーツ」の名前のように、スポーツ好きな人がもっと元気に、みたいな感じです。

しかし、健康運動指導士は、運動が好きではない人に、運動をするチャンスを与えて、継続させるという指導もします。

 

健康運動指導士は、例えば心筋梗塞の運動リハビリや、服薬している方の運動処方なども行います。

 

今回は終日座学ですが、必須の講習で、

「健康日本 21(第二次)」を中心とする国の施策の現状及び健康運動指導士の役割」

認知症機能低下を予防するための身体活動とその効果」

「各疾患者への運動療法、服薬者の運動と注意点」

というプログラムでした。

 

ちなみに「認知症」の話はなかなか興味深いものがありました。
そして、講師の先生のお名前が「飛雄馬」さんでした(それかい)。

いや~。お父さんがよっぽど巨人ファンだったか?

 

そこで配布された資料に

医療機関と健康運動指導士等との連携による運動療法の在り方に関する調査・研究

http://www.health-net.or.jp/tyousa/houkoku/pdf/42_gaiyou.pdf

という資料がありました。

 

気がついたのは、

一 方、性別構成でみると女性利用者が男性利用者に比べて約7割と高い。男性の利用割合が低い背景には、男性の地域における「居場所づくり」の難しさが考えられるため、利用者どうしの対人関係を容易にする雰囲気づくりや、長期的にフォローできる体制
を整えていくことが重要となる。

 

という箇所でした。以前、操体のサークル活動をしているところの話を聞きましたが、参加者の殆どはマダーム達で、男性は奥方に無理矢理連れてこられたという感じ。

 

また、マダーム達が集合してすごいパワーを発揮していたら、殿方も躊躇するかもしれません。これは性的な差別ではありませんが「男性向けの操体メンテナンスのクラス」とかあってもいいかもしれません。来やすいでしょうし。

 

なお、会場(飯田橋)から、東京大神宮までは歩いて5分程度だったので、お昼休みに参拝に行きました。お天気も良く、春のような日差しでした。

伊勢神宮の東京分祠です。境内で赤福も売ってますよ)

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東京大神宮



 

 

原理原則と創意工夫。

「イサキ」という操体関係の小冊子があります。
「万病を治せる妙療法」をメインというかお手本にしていると私は理解しています。

 

その冊子に、編集の方が「熊本に行った際、イサキでは新しい取り組みや工夫は載せないのか」というような質問を受けたそうですが、基本的にイサキ誌では、「橋本敬三先生の残したことが総論の原理原則で、各論は本筋の原則を見失うことにならないか?型にはめないためには常に原理の確認が大事なのでは。工夫のやり方を聞くのも大切。皆さんはどうお考えですか」という文章があったので、私なりに考えてみました。

 

この「新しい取り組みや工夫」というのは、想像するに「皮膚へのアプローチ」とか「第二分析」かもしれません。他にも○○操体ってありますけどね。

 

今は、ネットがありますので、調べれば最近の操体では「皮膚」へのアプローチはじめ新たな取り組みがある、ということは、すぐ分かります。

 

 

新しい工夫というリクエストがあるのもよくわかりますが、私自身、

 

イサキでは、

 

新しい工夫ややり方は、載せないで、原理原則を貫き、万病を治せる妙療法系を貫いてもらいたいと思っています。

 

原理原則は大切だからです。

 

我々操体法東京研究会のメンバーは「からだの設計にミスはない」を写本したり、「生体の歪みを正す」のどこに何が書いてあるかほぼ把握しているメンバーもいます。橋本哲学を深く勉強しているのです。

 

三浦先生の「生体の歪みを正す」などを見せていただくと、付箋と書き込みで厚さが1.5倍くらいになっています。

 

 

 

はっきり言えば「操体はみんなのもの」という、言葉を使って「新しい工夫」などを勝手な解釈で掲載するのはやめたほうがいいと思うからです。

 

新しい工夫を掲載するのであれば、それを考案した方に、ちゃんと教えを乞うべきです。それを「操体はみんなのもの(だから勝手に使っていい)」ということにはなりません。

 

操体関係者の悪いクセで、「きもちよさ」をはじめ「目線」「皮膚」など、最初は否定する割にはしばらくすると、

 

さも最初からそれが操体にあったような感じで、

 

「皮膚への操体マッサージ」とか、ちゃんと勉強もしない割には、言葉を拝借して「操体はみんなのものだから、皮膚の操体もそうでしょ」みたいな言い方をするんです。

 

また「第二分析」も、操体法東京研究会で使っている用語ですが、当研究会以外の人が、使っているのを見かけます(使うなら勉強して使ってほしいし、難しいとか難癖つけるなら、勉強してからにして欲しいと思います)。

 

 

 

ちなみに、私は仏教を勉強していますが、仏教も「お釈迦様の教えを忠実に守る」つまり、上座部仏教(今は小乗仏教とは言わない)と、大乗仏教に分かれました。

 

上座部は、お釈迦様のなさったことを、大乗はその時代に合ったものとして発展していったのです。

何かが発展する場合、創始者のなさったことを忠実に守る派と、その時代にあった形になるものが出るのは当然です。

 

しかし、

 

 イサキの読者の方が、新しい工夫を知りたいのであれば、「イサキ」にそれを求めるのはお門違いです。新しい工夫ややり方を知りたければ、実践しているところに求めるべきであり、ちゃんと対価を払って勉強しにくるのが仁義というものです。

 

 

操体はみんなのものだから、皮膚へのアプローチもタダで教えて欲しい」なんていうのは、「原理原則」と「それに沿った創意工夫」を混同しています。

 

橋本敬三先生も「自然法則の応用貢献」という言葉を使われています。

私にとっては「原理原則」よりも、こちらの言葉のほうが近い感じがします。

 

皮膚も、軸も、連動も(色々臨床的に工夫を積み重ねたものがあります)原理原則をもとに創意工夫したものです。

何度も言いますが、創意工夫にはコストも時間もかかっているんです。

 

 

それを「みんなのものだからタダで教えろ」というのは、ハリセンではたきたくなるくらい、アホです。

 

これを混同しているから「講習会の受講料が高い」とか「橋本先生からは操体をタダで習ったから受講料を取るのは間違っている」ということになるのです。

 

そしてこの場合は、原理原則と、実際の臨床実技を混同しているのです。

 

橋本敬三先生の時代には「からだを間違って使ってぶっこわしたんだから、動かして治せばいい」で済んだのです。

 

しかし、今は「からだを間違って使ってぶっ壊した」というよりも、心や環境の問題でぶっこわしている方が圧倒的に多い。

 

そのために創意工夫が生まれたわけです。

なので、今から40年50年前の操体に比べると、現在のものは、相当繊細に進化しています。ジェンダーの問題や、社会的環境の変化なども当然ながら関わってきています。

 

しかし、揺らがない原理原則の提示は必要です。

 

 

因みに、いわゆる第一分析は、原理原則ではなく、原理原則に基づいた、昭和の時代のやり方です。その当時の社会的状況にマッチしたものだったのです。

 

 

原理原則というのは「生命現象は快に従う」「救いと報いの関係性」などを言うのであると理解しています。

 

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少年愛の美学

 突然ですが、稲垣足穂先生です。

ちなみに私がこの本を読んだのは確か中学二年くらいだったかと。

覚えているのは、カバーが銀色の文庫だったこと。

そして長じてから、ISIS編集学校の卒門式で、松岡正剛先生に頂いたのもタルホ先生の本でした。

 

 さて、何故私がいきなりこの本を思い出したかというと

 

橋本先生の「小さき心」にこんな一節があります。

 

またも一つは米澤と云ふ所はいやな風習のある所でその頃美少年であった自分はあすこの中学校に入ると云ふ事はなにか恐ろしい事に出合ふ様に思はれたからでもあった。

 

これですが、タルホ先生を中二で読んでいた私はピンときました。

タルホ先生のこの本に

 

弥々丸は十一歳であったが、山僧の争いの中心になっていその昔、法師間の稚児争いに端を発する「少年騒ぎ」の刃傷沙汰は、明治末期に、学習院生徒それがしの帰校の途を要撃した抗奪組と、予め備えた一団の百数十名の大立廻りがあったのを、最終の例とするそうである。しかし大正中期までは、毎春、一般中等学校上級生のあいだに、「今年はX小学の何某はY中学に奪われた、その代りに、Z小学の誰それはこちらへ貰った」などという取沙汰が ... 全盛時代には余所と合わして部屋子が治二百三十余名いたと云う。

 

というところがあります。「いやな風習」というのは、いわゆる「稚児争い」というか、美少年を愛でるという風潮では???というわけです。

 

まあ、空海さんが「女犯(にょぼん)はダメだけどお稚児はOK」(意訳)の後、上のように「山僧の争い」とか、大正中期くらいまでは、そういう文化があったということです。

 

昨年の「ボヘミアン・ラプソディー」のヒットが発端ではありませんが(フレディは生前はゲイであることを公表していませんでした。知ってたけど)、自分の生き方やセクシュアリティに自信を持つ人が増えてきたような気もします。

 

折しも国内で同性婚(パートナーシップ)を認めよという訴訟が起こりました。

これを見て私の周囲でも「よくわからん」とか、結構否定的な意見を言う人もいますが、大正中期まで、旧制中学などでも「美少年文化」があったということです。

 

恋愛は美少年で、結婚は親が決めた相手とイヤとは言わずにする、みたいな感じでしょうか。

 

まあ、これは美少年を女子に模してというのもあるかもしれませんが、空海さんの時代から、大正中期まで、日本にはボーイズラブ、あるいはおっさんずラブの文化があったということですな。


なお、先出の「フレディ・マーキュリーと私」には、フレディとジムさんがあるバーに行ったら、女の子が2人出てきて相手をしてくれたと、後であの女の子達は男の子(ニューハーフだったらしい)と聞いてびっくり、と言う話がありました。

 

 なんだかオチがつけられませんが、「小さき心」というのは、大正時代に「アダム」という同人誌(新潟医専時代)に執筆されたものです。私は日本文学館式場隆三郎文庫(橋本先生と式場先生は「アダム」を一緒にやっていたのです)で、現物を見ました。

 

首コリ。

昨日、普段自分では見ないテレビを見ながら食事をしてました。

ためしてガッテン」で「首コリ」というのをやっていました。

 

バレリーナの方が、首コリで結構困っていたとのことですが、

確かに、バレリーナの姿勢というのは、アゴを引いて腰を反らせます。
こりゃ負担掛かります。

我々は、骨盤を前弯曲(前傾じゃありません)

https://teizan.com/sotai_yogokaisetsu#kotsuban

(用語解説集参照)

 

に保ちます。腰を反らさずに、膝の裏筋を軽く緩め(膝を曲げるのではない)、背筋は軽く伸ばす、いわゆる太極拳での「含胸抜背(がんきょうばっぱい)」のような感じです(全く同じではありませんが、骨盤は反らせないです)。

 

 

これができると、首がそんなに疲れなくなります。

 

また、顔を動かさずに、卓球の球だけ目で追うという実験をやっていました。

顔をギプスで固定して、目だけで球を追っているわけですが、筋肉は目も顔も首も繋がっているので、首を固定して目だけというのは確かに疲れるよな、と思いました。

 

私達はこういうことを知っているので、首が過度に凝るのを防いでるんだなと。

 

スマホを見るにしても、目の使い方(目線の使い方)などで、首や肩の疲れ方が全然違います。

 

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操体法東京研究会で何が学べるか

操体法東京研究会、私もこちらの出身です(正確に言えば、こちらの前にも操体は習っていました)。

 


www.sotai-miura.com

 

さて、今は操体を勉強したいと思えば、いろんなところで講習をやっています。

よね。


私が知っている限りでは、仙台の今先生の系統(今先生も三浦先生の受講生です)と、

先日逝去された「連動操体」の根本先生の系統(根本先生も三浦先生の受講生です)

などです。

 

 

まあ、こういうのは相性とタイミングです。

こればかりは「本当に相性とタイミングだな」と思わざるを得ません。

 

 

ちなみに、操体法東京研究会で何が学べるかというと、

「第五分析」が学べます。

また「体系づけられた、皮膚へのアプローチ」が学べます。

そして、私が10年かかったのを、最近は一年くらいで進めてます。

 

また、何が学べるかというと、

「介助補助法」です。

 

これ、写真で見てもわかりませんし、以前写真を見た人が「簡単そうだからちょっとやってみたい」と言って、個人レッスンでちょっと試した事がありましたが「全然簡単じゃない」(つまり、コツなどを教わらないでやろうとすると大変)と言ってました。

 

その「介助補助法」のコツと学べます。

 

また、操体も第二分析以上になってくると「コミュニケーション」が重要になってきます。操体は一本通行(One way)ではないので「言葉の使い方」や「相手をどうやって意のままに動かすか」という話法も学びます。

 

「言葉の誘導」って、意外と盲点なのですが、これができないと操体臨床を自分のペースに持って行けません。

 

単に「操法を習えば大丈夫」なわけではないのです。

 

そしてこれはオマケと言ったら何ですが、

講習に参加すると、元気になります。腰痛が治ったりします。

また「快」の効用によって、操者自身が疲れないのです。
そして「操体的なからだの使い方」と「セルフメンテ」も学習するので、結果的には自分のからだもケアできるということです。

 

操体法東京研究会の定例講習のご案内はもうすぐ出しますが、その前、GWには、昨年の秋、スペインのマドリッドで開催した4日間の講習(初級応用二日ずつ)を再現しようと考えています。

5月1日~4日を予定していますが、詳細はもうしばらくお待ちください。

マドリッドで、三浦先生が「被験者にふれずに、被験者の頸椎の圧痛硬結を言い当てた時」は(みんなできるようになります)、参加者、結構青くなってましたっけ。

「僕にしかできないことは、教えない」というのが三浦先生のポリシーです。

 

https://shiatsudo.com/es/sotai-2018/

 


Sotai-Ho® Seminar, Master Miura | Escuela Japonesa de Shiatsu