操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

挑戦してみたこと。

元々、施術業・療術業というのは、籠もってるものであり、文章を書くのもそうだし、カウンセリングや占いもそんな感じですが、私の場合出張が結構あるので、常にどこでもPC仕事ができるように、昔から工夫してきました(元々テレワーク?)。

 

その中でも使えるなと思うのは、EvernoteDropboxです。

特にDropboxは、東京操体フォーラムの実行委員メンバーとフォルダをシェアする時に使っていますし、「去年の確定申告のデータってどこだっけ」なんていう時に、スマホでも確認できます。

 

そういうこともあり、数年前から大学の研究室での利用を提案し、採用されています。
というのは、同じ研究室でも場所が離れているから。


また、大学内でzoomの利用が開始した翌日から、秘書の皆さんには「zoomのアカウント作ってね」と推奨したお陰で、リモートワークへの移行がすぐ出来ました。

 

  1. 共通書類などは、自分のPCに保管せず、Dropboxに保存
  2. Web会議用アカウントはすぐに取得し、すぐ練習してみた
  3. 研究室の秘書が皆、個人でMacbookを持っていた(なぜか皆Mac)

 

普段からこれをやっていたので、テレワーク移行もすぐにできたんでしょう

 

また、Web会議もいつもやっていたので、先のフォーラムや勉強会も、zoom移行がスムースにできたので、ありがたやと思っています。

 

さて、皆さんは今回「いつもと違うことをする」時間が増えたのではないでしょうか。

私の知りあいは『通勤時間を使ってできること』を色々やってみたそうです。例えば裁縫。

母のミシンが壊れたということで、母の日のプレゼントに買おうかと思ったんですが、ミシン特需状態(一度、朝8時の販売開始時間にネットで注文したら、次の瞬間「完売」になりました)というか、皆さん、考えることはほぼ同じで「マスク縫う」とか「洋服でもつくるか」と、家にいると製作意欲が湧くのでしょう(ミシンは予約注文しました)。

 

私はと言えば、趣味の映画館が閉まっているため(007もブラック・ウィドゥも公開延期になった)、密林プライムと、年初にdocomoのプランを変えた時に年間無料で加入した、ディズニーシアターデラックスのお世話になりました。

もともとテレビは観ないほうなのですが、テレビ番組はネガティブなニュースや、過去の放送の編集ものばかりなので(ニュースはネットニュースで足りるし)。

ような感じです。読書は、いつもと同じペースですが、易関係の本を読み直したりしました。また「鬼滅」は昔4巻くらいまで読んでいたんですが、20巻まで一気読みしました。20巻発売日は、全国の書店が混んだそうですが、私は電子本購入。

「鬼滅」は「呼吸法」なんですよ。私が思うに、呼気より吸気メインな気がします。
東京操体フォーラム関係者は、是非ご一読あれ。なお、主人公の設定は、橋本敬三先生より三歳年下くらいのようです。

 

鬼滅の刃 20 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 20 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

また、昔の名作が電子化されているので、それも少し。

 

Z<ツェット>電子完全版 上

Z<ツェット>電子完全版 上

 

 これは「エロイカ」のスピンオフですが、読み返すと「少佐が若い」(爆)。

少女マンガなのに軍人が出てくるとか、ごついおっさんが出てくるとか。007とかスパイもの好きにはたまらないマンガでしたな。

 

 

 マンガを電子本で読む時には、やはりiPadです。iPad proは、Appleペンシルを使いたいがために買った割には「マンガを美しい画面で読む」専用になっている気がします。

 

 その他ですが、東京操体フォーラムのサイトと、一般社団法人日本操体指導者協会のサイトを新しくしました。といっても、WordPressのテーマを変えて、データベースを新しいものに変えて、少し記事の手直しをしただけです。

ホームページを更新するとか、デザイン変更って、まとまった時間がとれないと、なかなか出来ないものです(言い訳笑)。

 

去年の春、重い腰をあげて、自分のサイトと師匠のサイトはリニューアルしたんですが、あと二つは放置していたもので(すんません)。

 

WPは出た当初から使っているのですが、最近はいいテーマが沢山出てますね。

 

ちなみに私が使っているのは、Lightning Pro というテーマです。

Vektor WordPress Solutions | Vektor WordPress Solution

vws.vektor-inc.co.jp

 

「きもちよければ何でもいい」ではない。

東京はまだ非常事態宣言の最中ではありますが、なんとなく人出も多くなってきたような気がします。

 

さて、操体をやっている人の中には「きもちよければ何でもいい」というスタンスの方もいらっしゃいます。

 

私達のスタンスは「からだが味わって見たいという要求を満たしている快」を、選択する、ということです。

簡単に言えば、きもちよさにも「ちょっときもちいいね」から「法悦的なきもちよさ」まで、色々あるわけです。

そして、それをさらに「からだ」目線で分類すると、からだが

「うん、このきもちよさ、採択」と
「きもちいいけど、却下」

というように「からだが味わって見たい快」まで、確認します。

「快ならなんでもいい」のではなく、「質の良い、味わって見たい快」を選択するということです。

 

操体にも「きもちよければなんでもいい」派と「質の高い味わって見たい快」を選択する場合があることです。

 

私自身は勿論後者の「質の高い味わって見たい快」派ですが(師匠がそうですから)、「きもちよければなんでもいい」というのは、非常に大雑把に見えますし、私がよく遭遇するのは「きもちいいですか」と聞きすぎるということです。

 

操体を受けて困ったことベスト3」に入るのは

「きもちよくないのに『きもちいいか』と聞かれて困った」「正直に行ったら先生が不機嫌になった」という話ですが、

 

これ、何度も書いてますが、我々は「きもちいいですか」というような、不躾な聞き方はしません(からだへの問いかけ方は、操体法東京研究会の講習でミッチリ習いました)

 

あるところで習ったという方は「きもちいいかどうか、たくさん聞けと習った」と言っていましたが、クライアントがいやがるのは「わかんないのに感覚を聞かれる」ことなのです。

 

きもちよくも何とも無く、もしかすると、センセイの力が強すぎて痛いかもしれないのに「きもちいいですか」と何度も聞かれるのは、ゴーモンです。

(以上実話)

 

そして、もう一つ。こういうやり方をするセンセイ方は「からだに問いかけて」いるのではなく「本人に聞いている」のです。

(我々は「からだ」に問いかけています)

 

今日、また書いてみたのは「きもちいいですか」と聞かれまくってウンザリしたというクライアントの方がいたからです。

 

と、書いてみましたが、私が現在臨床で行っているのは「第五分析」。

操体は「きもちよさ」を超越しつつあります。

 

 

それにはふか〜いワケがある(つづきのつづき)

今日は一ヶ月ぶりで施術会を開催しました。

 

終わってから、三茶のコメダコーヒーで、実行委員の寺本君と三浦先生とコーヒーを飲みながら雑談をしていたのですが、やはり話は「やっぱり我々は皮膚っていうけど、カワとは言わないよね」という話になりました。

 

昨日私がブログに揚げた「火の呼吸と炎の呼吸」(鬼滅)の話にもなりましたが、狂言を修業している寺本君が、面白い話をしてくれました。

 

狂言も面(おもて)が欠かせませんが、業界用語?では「面を付ける」とは言わずに

「面(おもて)をかける」というのだそうです。

一般の人は「面をつける」と、言ったりしますが、関係者からすると「つける」のでなく「かける」のであって、それは重要なことであり、「つけるもかけるもどっちも同じだろう」ではないのだそうです。

 

私が思うに「つける」といって装用する場合と「かける」場合、やはり演ずる人の心構えが違うのと、「おもてをかける」という言葉の中に、長い歴史と、受け継いできた人達の気持ちがこもっているような気もします。また「かける」という言葉からは「憑依する」とか「纏う」のようなニュアンスを感じます。面をかけることによって、現代に生きる演者が、時空を越えていにしえ人に憑依されるとでも言えばいいのでしょうか。

 

それをきいて「そりゃ『かける』だよね、と納得した次第です。

 

 

業界の特有の言葉は、やはりそれなりに意味があるのです。

 

 

それにはふか〜いワケがある(皮膚とカワの違い。続き)

鬼滅の刃』(7巻)の胡蝶しのぶの台詞より

私も仔細はわからなくて・・・・・・
ごめんなさいね
ただその辺り、呼び方についてが厳しいのですよ
「炎の呼吸」を「火の呼吸」と呼んではならない

詳しいことは炎柱の煉獄さんに尋ねてみるといいかもしれません

 と、引用してみました。

「皮膚」と「カワ」も私の中ではこんな感じです。

 

 

鬼滅の刃 6 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 6 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 

皮膚もカワも同じようなもんじゃね〜か!一緒にしちゃ悪りぃのかよ!(私の脳内では、伊之助が叫んでいます笑)

と、言われたら

私も仔細はわからなくて・・・・・・
ごめんなさいね
ただその辺り、呼び方についてが厳しいのですよ
第三分析(皮膚へのアプローチを総称)において
「皮膚」を「カワ」と呼んではならない

詳しいことは三浦センセイに尋ねてみるといいかもしれません

 

と、答えるしかありません(笑)。

まあ、この辺りは「操体専門用語」だと思って下さいね。

 

 

大抵の人は、「からだ」=「自分」だと思っています。

 

★この「からだ」と「自分」も、操体的な考え方だと思って下さい。「一般の国語的な」ものは、ちょっと横に置いて聞いて下さいね。


が、私達は「からだ」は「自分」ではないと思っています。


「自分」は、知恵がついているので「回数が多い方が得」とか「左右両方やるのが正しい」「何回やるのが正しい」というように「損か得か」「正しいか正しくないか」で考えます。

「からだ」は「快か不快か」(好きか嫌いか)で答えを出します。

 

私達が使う用語で「からだにききわけて、教えてください」というものがあります。

私達は普通に使っていますが、聞いた事がない方は「からだにききわけてってどういう意味?」と思うでしょう。

 

私は私なのに、何故「からだにききわけて」って言うのでしょう?

私もからだも同じなんだから、なんで「からだにききわけて」っていうんでしょう?

という疑問を抱くかもしれません。

 

実は「自分」(アタマ)と「からだ」は別なんです。

他の治療法や、セオリーが「自分」と「からだ」は同じだと思っていても、我々は「違う」という認識でいます。

 

さらに、私は「身体」や「体」とは書かずに「からだ」と平仮名で書いていますが、これにも意味があります。

 

このあたりは、師匠から受け継いだことですが「操体でいうところの『カラダ』は、漢字ではなく、ひらがなである」という「感じ」です。

 

「体」「身体」「體」として、クライアントのからだに向かうのか、それとも「からだ」として向かうのか。
それは、操体実践者(操者)の姿勢です。

 

別に、操体法東京研究会一門以外の方に強要するつもりは毛頭ありませんが、私達はこの「違い」を大切にしているということです。

 

「皮膚」「からだ」「左目線と右視線」「からだにききわけて」のように、独特の使い方がありますが、それにはふか〜いワケがあるんです。

 

まあ、深いワケというか「炎の呼吸」を「火の呼吸」と呼んではならない、みたいな感じだと思っていただければと。

 

 

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何故私達は「皮膚」といい「カワ」とは言わないのか

ここで言っているのは、操体臨床における、という注意書きがつきます。

また、非常に「感覚的」(操体ではとても大事)なものです。

 

一般的な漢字の意味とか成立というよりは「操体の臨床家が被験者の『皮膚』に触れる際の意識」の設定と思って頂ければ、幸いです。

 

 

操体臨床家自身の「心構え」「セッティング」です。

また、比較として「皮」という言葉が出て来ますが、我々が触れるのは「皮膚」であり、なめした皮とか、分厚い皮(ツラの皮とかハラの皮とか)ではないというのが前提です。

 

あくまでも「操体臨床における言葉の使い方と、操者の心構え」ということなので、これを操体実践者以外に強要するつもりもありません。

 

私の操体の師匠、三浦寛先生(ますます新しい「第五分析」を生み出しています)が、皮膚へのアプローチ法を、公に発表したのは、1999年の10月です。

 

何故、私が覚えているかというと、全国操体バランス運動研究会東京大会が、早稲田大学で開催されたから。

 

この時の実行委員長が三浦先生であり、この日に発売されたのが、この本です。

 

渦状波® カジョウハ。第三分析。皮膚に刺激にならない接触を行う診断分析法。を

 

 当時の操体関係者は、「快だの皮膚だのって、何言ってるんだ?」みたいな感じでしたが、私の予想通り、しばらくしてから「面白いからやってみよう」のヤジウマ根性で、皮膚に触れ出す人が現れました。

 

しかし、その人達と三浦先生の何が違ったかというと、接触の方法です。

三浦先生は「刺激にならない接触」。
他の人達は「刺激」でした。

 

私の知りあいで、私が三浦先生に師事していることを承知の上で「渦状波かよ!」と、私に吐き捨てるように言った人が、数年後、自分のサイトで

「皮膚を捻る」「絞る」「ずらす」とか書いているのを見て、「あ、やっぱり刺激をやってるんだな」と思いました(渦状波をバカにしていた発言をしたくせに、やっぱり皮膚をつかうんかい!と、呆れた記憶もあります)。

 

また、ある先生は「カワの操体」と言い出しました。

ずらす、ひっぱる、絞る、ねじるなどの刺激です。ご本人も「皮膚への刺激だ」とおっしゃっていたので、「皮膚への刺激」という理解でしょう。

 

なお、私が思うに「皮膚の操体」と書くと、三浦先生のマネとかパクリとか言われそうなので「カワ」にしたのではないかと(あくまでも私見です)。 

 

さて、私達(操体法東京研究会一門)は、「皮膚」と言います。

それは何故か。

 

皮膚 生命(いのち)そのもの。
カワ 生命のないもの、もしくは分厚くて感覚のないもの
肌 皮膚と同義語であるが、人の思惑が関係していたり、人工的であるもの(状態、美醜、色、化粧など)

 

と、考えるとわかりやすいかもしれません。
生命(いのち)そのものにアプローチしているので「皮膚」と言っているのです。

 

★皮膚が「イノチ」である、なんて、辞書には書いありません。これは「操体の感覚的な話」だと思って下さいね。

 

そもそも、医学用語でも「皮」とは言いませんよね。
「皮膚科」とは言うけれど「皮科」とか「皮革科」とは言わないし「肌科」とも言わない(肌科、は化粧品の名前になりそうですが)。

 

我々は人様のからだに触れさせて頂いています。

同義語に「肌」という言葉があります。

 

英語にすると、皮膚は  skin    皮は  leather で異なりますが、肌も皮膚も  skin です。

 

昔、受講生が間違って「肌の操体」と言ったことがありました。聞いていた周囲は「なんだか、エロい感じがする」と、ザワつきました。

 

肌という文字は「肌を合わせる」(肉体関係を持つ、ぐるになる、示し合わせる)というイメージを想起させます。

 

肌に触れる、というイメージと、皮膚に触れるというイメージの違い、お分かりになるでしょうか。


被験者として受ける方は、この違いは分からなくても区別しなくても良いのですが(御本人が解らなくても「からだ」が理解してくれます)、操体の実践者であるならば、この違いが分からなければ、アウトです。

 

これと同じで、「皮」というのは英語ではleatherというように、動物の皮を示します。皮、カワというのは(毛皮というのはちょっとニュアンスが違います。太鼓や楽器に使う動物の皮は、あきらかになめしてあるので、カワです)には、イノチがないのです。

 

何故、我々が「皮膚」というか。

そしてカワとか肌と言わないかというと、「皮膚」という認識を持って人様に触れるのと、「皮」「カワ」という認識をもって触れるのと「肌」という認識を持って触れるのとでは、相手のからだの反応が全く違うからです。

 

「皮膚」というと、私の脳裏には、細胞レベルから潜在意識、生命に繋がるイメージが浮かびます。その「生命(イノチ)」そのものに触れさせていただくのですから、尊敬、敬意、共感を伴っています。

 

ちなみに、私は猫に渦状波をやることがありますが、「毛皮」とか「皮」だと思ってやることはありません。皮膚、あるいは「生命そのもの」として触れます。

 

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 肉球をぷにぷにされるのはちょっとイヤ(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉の誘導は「体感語」であり「催眠誘導語的」である。

言葉の誘導は「体感語」であり「催眠誘導語的」である。

なので「被験者の理性で理解させようとしないこと。被験者のからだが理解すればいい」

 

 

東京操体フォーラムには、数人の相談役がいます。

全て私の知りあいです。

皆、その道のスペシャリストです。

 

なぜ、相談役をお願いしているかというと「操体の常識は世間の非常識」みたいなところがあるので、客観的に外からみてもらっているというわけです。

 

 

「そういえば、言葉のてにおはがちょっとおかしい」という指摘がありました。

 

そうなんです。
日本語をしっかり学んでいるとそういうところがあるかもしれません。

私自身「ら抜き言葉」を、口語ならともかく、文章に書く輩はどうしたもんよ、と思うクチです。

 

しかし、これらの言葉は、我々の師匠から派生している言葉なんです。

 

うちの師匠、三浦寛先生は「天からヒントや言葉が落ちてくる」人です。

いや、ホントに降ってくる人なんですよ。

 

★実際「答えはわかるけれど、プロセスが抜けている」ことがあるので、プロセス解明は弟子の役目であると、半蔵さんと私がプロセスを追っかけています。

 

なので「へ?」と思う事もあるのですが、いままでのことを考えてみると、ほぼ間違いないし、患者さんは良くなっているし、からだは変わります。
我々は「師匠の言うことはまず、やってみよう」となるわけです。

 

私達は、まず「完コピ」します。

 

そして、自分なりのアレンジは「完コピ後」です。

 

「完コピ」をやるには、素直さが必要です。

最初、完コピはは恥ずかしいのです。


それが吹っ切れると、次のステップに上がれます。

 

不思議なのは、修業の途中で「自分なりにアレンジしたい」という人に限って、結果が出せないか、コケるのです。これは本当に不思議です。

 

なぜ、完コピするか。

それは「効くから」です。

 

そして、何で「ちょっとヘンな感じ」がするのか(特に、日本語をしっかり学んだ人からすると、ヘンな感じがするかもしれません)。

 

それは「本人」にではなく「からだ」にむけてかけている「体感語」(操体用語です)が入ってるからなんです。

 

「からだ用の方言」と言ってもいいかもしれません。

もっと言えば、催眠誘導語に近いかもしれません。

 

面白いというか、不思議なのは「被験者のからだは、操者の言葉の誘導に、忠実に反応する」ということです。

患者さん(被験者)が動いてくれない、というのは操体をやる人の悩みによく挙がりますが、それは「操者が悪い」のです。

からだではなく、アタマに問いかけるので、被験者は「あれ?」と「動き」を考えてしまうのです。

 

操体の言葉の誘導というのは「本人」に行うと、「本人のアタマ」が働きます。

私達は「アタマ」ではなく「からだ」に問いかけたいのです。


本人のアタマ(エゴ)は、こっちのほうが正しいとか、左右平均してやらなきゃとか、回数が多いほうが得だとか、正しい正しくないとか損得勘定します。

 

そうではなく、からだに問いかけることによって「快不快」をききわけていただくのです。

 

一番いいのは、きもちのよさを充分味わっていただいて、意識がぶっとんでいて、感覚の世界に入っている時です。

そういえば、キーワードがいくつかあるのですが、「へ?なんでそれ?」というのもあります。

 

私も最初「へ?それ?」と思ったことがありますが、実際に目の前で、被験者の「からだ」が反応するのをみて、あるいは言語を越えて(日本語がわからない人に対して)も反応するのをみて「体感語ってあるんだ(ほぼ催眠誘導?)」納得しました。

 

そして、その「体感語」の出し方ですが、そこがベテランの腕の見せどころです。

ベテランは「完コピ」ではなく(師匠でさえ、実際にはオリジナル完コピを超越したものを使っています)、自然に使います。

 

ちなみに、講習の場では「右手関節を内旋」とか「左足首を内反」とか言ったりしますが、これを、ふつーのクライアントに言っても「へ?なにそれ?」と言われます。

ビギナーは、講習でならっている通りに自分のクライアントに言葉をかけ、「何難しいこと言ってんの??」と言われます。当然です。

 

特に、講習に出ていると「言葉が分かっている仲間」と組んでやるので、相手はちゃんと動いてくれますし、難しい誘導語もわかってくれます。

しかし、実際の臨床ではそんなわけには行きません。

 

講習の場では完コピ、臨床の場では「クライアントファースト(臨機応変にクライアントが理解できるように」というように、言葉の鍛錬を積んでいくのです。

 

講習中は、先輩に言葉を修正されまくります。

 

今まで漫然と使ってきた言葉を、再構築するのです。

 

第二分析以降は、これが大事です。

 

今回、こんな貴重なことに気づくことができました。

 

ありがたいことです。

操体と胆石。

知人がGW中胆石の発作で入院だったそうです。

お見舞いのメッセージを送り、「実は私も胆石持ちです」と書いたところ、「操体法で胆石は治らないの?」と聞かれたので、考えました。

 

さらに、以前ヨガの先生が書いた本で、ヨガ教室の生徒さんから、「指切っちゃったんですが、ヨガで治りますか?」と聞かれたという話を思い出しました。

 

ヨガで(あるポーズをしたら傷がぴたっとくっつくとか瞬時に治るとか)は、瞬時には治りません。が、患部を一晩高くするとか、回復は早められると思います。

 

以前、足趾の操法集中講座で、参加中の受講生が、包丁で、指先が皮一枚繋がっているくらいの大怪我をして、包帯を巻いてきたことがありました。

もう一人は、バイクで転倒したという受講生。こちらは打撲です。

 

こんな時は、やはり「実践」です。

臨床家はタダでは起きないのです。

 

どちらも、予想よりはるかに早く回復しました。

 

勿論、患部をいじくり回したりしたわけではありません。患部より遠方からアプローチするのが、操体的アプローチです。

 

★転んでもタダでは起きないのが臨床家で、どうやって身体が変わるのか、治癒に向かうのか、それを自分のからだで体感するのも、修行です。

 

そして、一度も怪我したことがなくて、病気もしたことがない人が、治療家(臨床家)にはなれません。

人の痛みや辛さが解るのが、プロなんです。

以前学校で「今まで病気一つしたことがない健康体です」という人がいましたが、途中インターンで治療院に行っていましたが(詳細はおいときます)撃沈していました。

というのは、患者さんの辛さがわからないから

 

私のところに大昔来た受講生(体育会系の屈強な男子)は「なんでお客さん(その時は若い女性)に毛布をかけるんですか」と、聞きましたが、その時は私が驚きました。

勿論、リラックスして副交感神経優位になると、体温が下がったりするからです。

 

体育会系の屈強男子は「施術中に体温が下がって寒くなるかもしれないから、頃合いを見計らって毛布をかける」ということがわからないのです。

 

というわけで、臨床家は「一病息災」くらいがいいと思っています。

 

なお、私の胆石ですが、発作を起こしたりはしないので、温存しています。

操体をやっていても、病気になったり、どこかおかしくしたりはしますが、回復は早いです。

 

私自身、胆石を操体で治そうとは考えていません。
しかし、発作を起こしたり悪さをしない程度には抑えておけるだろうし、例え何かの時に悪化しても、回復は早いだろうと思っているのです。

 

また、自然療法に頼りすぎて、というのも考えものです。

その点、操体はもともと医師が考案したものですから、西洋医学も否定はしません。

 

操体と西洋医学の違いは、病気になる順番と治る順番が違うということ。

例えば、西洋医学では「胃潰瘍の原因はピロリ菌なので、胃を消毒する」という方法をとります(器の中身にアプローチする)、操体では、「息食動想」のバランスを整え、ボディの歪みを正し、軸の適正化をはかることによって、からだの内圧を正常化させ、器の外側から調整していきます。

 

まあ、操体というのは、ぎっくり腰や五十肩とか、痛みにも対処できますが、根源的な快復力や、免疫力を高めるというのが、本来の目的なのではないかと思います。