操体法大辞典

操体の専門家による、操体の最新情報など

原始感覚を目覚めさせてから「快」へ

すごく昔の操体法の本を読んだ人が、

「もう、瞬間的に全部変わるの!」くらいの大期待をして来られることがあります。

 

確かに、私も今までに何件か「えっ?」と思う程の変化を見たことがありますし、三浦先生のところでは、行きは車椅子でやってきて、帰りは歩いて帰った患者さんの姿を何度も見たこともあります。

 

しかし、大抵は「息食動想+環境」のバランスを崩して、時間をかけて、からだを壊しているのだから、そんなに劇的な変化を求めるのは性急というものです。

 

以前、三浦先生のところに、図書館で借りたという「操体法治療室」を持った若い男性が来ており(私は後ろで見ていた)

 

至高体験がしたいんです』と、言っているのを聞きました。

 

私が想像するに「快」→「至高体験」みたいなことを考えていたのでしょう。

実際、渦状波®で、至高体験(宗教的エクスタシーっぽい人を見たことがあります)が、これは、その人の体質や感受性にもよる(被暗示性とか)でしょう。

 

かといって、いきなり治療室にやってきて、治療も受けずに?至高体験したいと言ってもねえ。

 

結局その人はお茶を飲んで帰ったような記憶があります。

 

そして「きもちよさがわからない」「すごい変化がない」と言って「自分は操体に向いてないんじゃ」という人がいます。

 

これは、操者の指導の問題も勿論ありますが、「すごい期待」をしていらっしゃる方もいるんだな、と感じる事があります。

 

この話題は三年に一度くらいは私の前で起こるので、そろそろこの時期かな、と思ったりもします。

 

それは「快」に関する、過度な期待です。

 

大前提として、操体で言う快とは、生活や世界の中に存在する大きなくくりの「快」ではなく操体臨床時に、からだがききわけ、味わってみたい要求を満たす快」ということです。

 

「きもちいいなら何でもいい」とか「快は全て操体だ」というような乱暴なカテゴライズではありません。

 

また出すのは気が引けますが、その昔「人を殺すのが快だ。快楽殺人も快ならば、どうなんだ」という変な人がいました。橋本敬三先生もおっしゃっていますが、人に迷惑をかけたり、過度にならないのが鉄則です。快楽殺人というのは、あきらかに人に迷惑というか、犯罪です。

 

最初に行っておきますと、操体で味わうことができる快は、我々が「憶の快」と呼んでいるものです。性的な快とは異なります。

 

このあたりは、アタマで考えずに、体験して体感していただくのが、早道です。

 

「考えるな。感じろ」by ブルース・リー

 

一方、快を識別するには「快か不快か」を選ぶ力「原始感覚」が必須です。

現代人は「正しい・正しくない」「損か得か」という選択肢で生きているのと、アタマを使いすぎて「原始感覚」が鈍っています。

 

例えば、自分の舌よりも、ネットの「○○ログ」を信用したり、並んでいるお店だから並んでみたり、というように、自分で「快不快(好きかきらいか)を選ぶチャンスが減っているのです。

 

なので、本来ならば、快適感覚のききわけにすぐ入りたいのですが、そもそも「原始感覚(快か不快かききわけるちから)」が鈍っているので、それを甦らせる必要があります。

 

原始感覚を蘇らせる一番の方法は何かというと「快を味わう」ことです。

 

私自身は、これに一番マッチしているのが「足趾の操法」だと思っています。

 

初診のクライアントの場合、カチカチに緊張しているとか、本人が気がついていなくても、全身が緊張している場合が多いのです。

このような場合は、操法を行っても、こちらが意図した通りにはいかなかったりします。

 

例えば、つま先をすねに向けて反らせて、それから脱力(急速脱力ではない)を促しても、力がはいったままであるとか、膝を傾倒させて、力を抜かせても抜けない(瞬間急速脱力ではない)、本当は全部抜いて欲しいのですが、ピョコン!と両膝を真ん中に戻してしまうとか「緊張」が操法の進行を妨げることがあります。

 

なので、緊張が強いとか、初回は、足趾の操法など、比較的操者がアプローチするものからはじめ、緊張をほどいて、原始感覚を蘇らせることからはじめなければなりません。

 

ところが、アタマで考える人は「いっかい受けたけど、よくわかんない」と言ったりします。

 

この「アタマで考える」のを吹っ飛ばすのが「左脳とばし」です。

これは、かなりぶっ飛びますが、一人だけ、施術の最中ずーっと喋っていて、たまに意識が飛ぶのですが、あとで「きもちよさってよくわかりませんでしたー」という人はいました。

 

「本人」は気がついていなくても「からだ」は、反応しているのです。

アメリカの医療ドラマで「患者はウソをつく」という決まり文句があるそうですが、「からだはウソをつかない」のです。

 

操体臨床における快」というのは、感覚ですから、学習する必要があります。

 

最初から「失神するくらいの快」を期待してはいけません(笑)。
「処○なのにめちゃくちゃ○度が良くて初○○から○じまくり」とか、「失神するくらいのめくるめく快感」は、映画とか本とかの中のお話です。

この話をすると笑われますが、実際にこういう期待をしてくる人がいるのです。

 

実際、初めて受けて宗教的エクスタシー、みたいな人もいますが、数としては非常に少ないことです。

 

しかし、最初から「エクスタシー」にいかないからと言って「私に操体は合ってない」というのは性急すぎるというものです。

それはあまりにも残念です。
「失神するような快感を得られなかったので、私には向いてない」というくらい(あ、笑ってます?でもホントなんですよ)なんです。

 

また、これも面白いのですが
「きもちいいけど、ちょっとしかきもちよくない」という人もいます。
人間、きもちよさに対しては、あまり寛容ではないというか「めちゃくちゃきもちいい」とか「失神するほどきもちいい」レベルでないと認めて貰えないのでしょうか。
裏を返せば「快」に対する期待が高いのかもしれません。

 

面白いのは、足趾の操法の反応です。

 

最初「なんともないです」

だんだん「きもちいいけど、ものすごくきもちいいわけじゃないです」

2ラウンド目「ぐ~」(寝ている)

3ラウンド目「すんごくきもちいいです~」

同じ「足指をもむ」でも、1ラウンド目と2ラウンド目では、感覚が違うんです。

そして、これは不思議なのですが、足趾は1ラウンド目よりも2ラウンド目、2ラウンド目よりも3ラウンド目、というように、回数を重ね、快を味わえば味わうほど、きもちよさの質が高くなってくるのです。

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趾(あしゆび)の背屈

 操体法の中で、多分一番目か二番目に有名なのが、足関節を背屈させ、足背に介助あるいは抵抗を与え、脱力させるものでしょう。

 

これは、単に足関節を背屈しているとか、つま先をあげているのでは、ありません。

厳密に言えば、趾(あしゆび)の背屈です。

 

私の場合、趾を反らせたあと、被験者の足首の状態によって、足首も軽く背屈するように促します。

 

おっと、その前に、一番最初に、カカトで支点を作っておきます。

橋本敬三先生が「カカト踏んで」とおっしゃっていたのも納得です。

  1. 操者は、被験者にカカトで支点をつくることを指示する(ex. カカトを支点にして)
  2. つま先が、脛にむくように(操者は、導誘して趾が脛に向かうように)
  3. この時、足背に介助を与えても構わないが、ここで
  4. 「カカトをお尻の方に、軽く引くような感じ」(引かせるのではなく、カカトを支点にして、皮膚を使って臀部方向に軽く引くようなイメージ)をさせると、背中が軽く反ってきて、足背に介助補助を与えなくても、全身形態に連動が起こる。
  5. つまり、カカトを支点にし、つま先(指先)が、反るようにしながら、カカトをかるく臀部に引くような感じで、連動を促すと、背中が軽く反ってきて、全身に波及する
  6. ここからの問いかけは、被験者の「慣れ」の度合いによって使い分ける。

 

なお、カカトの下に「肉団子(通称)を入れたり、バリエーションがあります。

 

一つの型の応用です。

 

操法の後の「脱力」いろいろ

  1. 数秒間たわめの間をもって、瞬間脱力(第一分析)。二~三回繰りかえす
  2. 抜きたくなったら抜いて、という指導をする(D1')。回数の要求は、はからだにききわける
  3. きもちのよさがききわけられたら、第二分析に移行する。回数の要求はからだにききわける

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継続は力なり(腰痛とか膝とか)

知りあいが「先週歩けなくて整形に行って、注射を打って貰ったら、半日後くらいに痛みがなくなった」と言っていた。左の梨状筋辺りから、腿の裏側にかけて痛かったのだそうだ。

局所麻酔というやつだ。

 

動作を見ると、同手同足でモノを拾う。

左足を一寸前にして拾えるか?と聞くと、左足に体重がかけにくいという。

その人は、右利きなのに軸足が右で、あきらかに右足に体重をかけるのがラクなのだそうだ。

 

また、左股関節付近のレントゲンを撮ったところ、大腿骨頭に「加齢」による、石灰沈殿があったそうだ。

 

なるほど。操体法の場合、症状疾患にはとらわれないので、ここでは「なるほどと」と、あくまで事実を見ることにする。

 

そして、興味深かったのは「毎月2回ホットヨガに行っている」ということだった。岩盤浴もあるので、結構たのしいらしい。

 

ちなみに「運動不足」だから、からだに痛みが起こるというわけでもない。

この人は、数年前膝が痛かったのだが、「運動不足?」と思い、ウォーキングを始めたら膝の痛みが改善したらしい。

これは、ウォーキングをしたので膝の痛みが解消したのではない。

 

私の経験談のように、右手でモノを拾う際、右足を出していたのを、左足を前に出して拾うようにしただけで、膝の痛みが解消した例もある。
この場合は、左足を出してモノを拾ったから膝痛が解消したのではなく、からだにとって、自然な使い方をしたので、全身のバランスが整い、結果的に膝の痛みが解消したと考える。なお、この方は、その後定期的に操体法のメンテナンスをしっかりやっているが、膝の痛みは8年近く再発していない。

 

ウォーキングによって、足(大腿部)の筋肉を使うようになったので(大腿筋と膝は関連性がある)、また、歩く事によって気分がリフレッシュ(継続して歩くと脳内ホルモンが分泌される)したこともあるだろう。また「運動している」という充実感もある。

 

ヨガもウォーキングも「継続」しているのだ。

ヨガをやったから良くなった、歩いたから良くなったというよりも、「継続したので改善した」と考えたほうがよいのだ。

 

しかし、我々のような手技療法の場合は「一度行ったらよくなる」ことを期待されることが多い。が、それは程度による(まあ、期待されるのは当たり前かもしれないが)。

 

勿論一度で結果が出ることもあるが、基本的には、継続が必要なのである。

 

  1. ギックリやっちゃった!(いままでの習慣の積み重ねが、一気に噴出)
  2. 動けない!(自分では対処できない状態)
  3. プロの出番(まずは応急)
  4. プロの出番(生活習慣とか経過チェック)
  5. プロの出番(自分でケアできるところまで健康度合をアップさせる)
  6. プロの出番(セルフケア指導)
  7. 自分でケア
  8. 定期的にメンテ

 

8の「定期的にメンテ」だが、髪の毛も自分でカットできるし、顔も自分で洗えるし、パックもシェービングもできるけれど、たまにはプロにカットしてもらったり、プロにフェイシャルをお願いしたり、と、たまのお手入れ(メンテ)には、プロの手を借りるといいですよ、というお話である。

 

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本当に「きもちのよさを味わえる」操体法のセルフケアとは。

昨日の第五日曜は、午前中が、東京操体フォーラム実行委員による打合せ、午後は、zoom(オンライン)と実際の出席者による「塾SOTAI」でした。

つい先週、東京操体フォーラムを終えたばかりですが、終えたばかりなのに、三浦先生から、また「すごいの」が出まして、私は「ああ、操体勉強しててよかった」と思いました。

 

 

操体法実践者や、体験者であれば「仰臥位(あおむけ)膝二分の一屈曲位で、膝を左右に倒す」というのは、見たこと、聞いたことがあるかもしれません。

 

さて、私がその昔、操体初心者だったときのことです(当時は、楽な動きと快適感覚の区別がついていなかったし、三浦先生に師事する前の話です)。

 

両膝を左右に倒して、どちらが楽ですか、辛いですか(やりやすいですか、やりにくいですか)と、問いかけます。

(楽か、辛いかの二者択一の第一分析です)

 

楽な方がわかったら、楽な方にゆっくり倒して、操者は被験者の膝を支えます。
そして、数秒後に、被験者は、瞬間急速脱力します。

(操者は、被験者の膝を支えたままです。中には手を離してしまう操者もいますが、それでは被験者も操者も怪我をする可能性があります)

 

これ、一人でやると、操者の支えがないので、面白くないんです。
つまり、操者の支えと、脱力後の支えあっての「運動充実感」なんですね。

 

ある時、某所で操体のセルフケアを習ったという方が見えました。

色々聞いてみると、上記の「膝の左右傾倒」を一人でやる場合は、倒しやすい方の膝側に、クッションをかませて、クッションに向けて脱力操体法実践者や、体験者であれば「仰臥位(あおむけ)膝二分の一屈曲位で、膝を左右に倒す」というのは、見たこと、聞いたことがあるかもしれません。

 

さて、私がその昔、操体初心者だったときのことです(当時は、楽な動きと快適感覚の区別がついていなかったし、三浦先生に師事する前の話

 

両膝を左右に倒して、どちらが楽ですか、辛いですか(やりやすいですか、やりにくいですか)と、問いか

(楽か、辛いかの二者択一の第一分析です)

 

楽な方がわかったら、楽な方にゆっくり倒して、操者は被験者の膝を支

そして、数秒後に、被験者は、瞬間急速脱力します

(操者は、被験者の膝を支えたままです。中には手を離してしまう操者もいますが、それでは被験者も操者も怪我をする可能性があります

 

 

これ、一人でやると、操者の支えがないので、面白くない

つまり、操者の支えと、脱力後の支えあっての「運動充実感」なんですね

 

ある時、某所で操体のセルフケアを習ったという方が見えま

 

色々聞いてみると、上記の「膝の左右傾倒」を一人でやる場合は、倒しやすい方の膝側に、クッションをかませて、クッションに向けて脱力すると習ったんだそうです。

 

たしかに、クッションかますのも手です。

 

一方、クッションだと「充実感」に欠けるんです。

ためしにやってみてください。クッションに向かって瞬間急速脱力。

悪い事はないと思いますが、人の手で支えてもらう安心感や、充実感には欠けるはずです。

 

 しかし、道具を使ったりしなくても「充実感があり、快をききわけ、味わうことができる」やり方は、あります。

 こちらの本は、三浦先生の処女作ですが、後半に、セルフケアの操法が結構載っています。また、

 

 こちらにもセルフケアの操法が載っています。

 

しかし、これらはいずれも20年以上前に公表されたもので、実際にオンタイムで学び実践指導している私達や、三浦先生ご自身にとっても

アップデートが必要になっています。

アップデートが必要だと一番感じているのは、執筆当事者だと思いますが、これらの本をそのまま参考にして、というのは、ちょっと古い。

 

これらの本を参考にして下さっている方々は、大変ありがたいのですが、ちょっと残念です。アップデートしているのです。

 

最近のは、もっとシンプルでなおかつ強力です。

 

そして、この辺りを覚えて頂こうと思っているのですが、一つ条件があります。

 

それは「(私が)きもちよさを探して色々うごいてみる」のではなく「(動診、つまりある動きを試してみて、きもちのよさを(からだにききわける)」ということの区別がついている、ということです。

 

文章に書くとなんだかややこしいかもしれませんが、

きもちいいかどうかというのは、動いて(動診)から、判断することである、動診と操法の区別がちゃんとつくようになってから、ということです。

 

ここを最初にクリアすると、進捗が早いです。

 

今度は、このあたりをセミナーでやろうかと考えています。

 

 

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触れること。

最近は、ネトフリで「ルシファー」を見ている畠山です。

お、これは冒頭5分見ることができますね。

warnerbros.co.jp

 

自分でも笑っていますが、Young Popeの次はルシファーかよ!みたいな感じです。

 

ブッダとイエスが休暇をとって、東京都立川に降臨するのは「聖★お兄さん」ですが(映画もネトフリでみましたが、面白かったです)、これは、地獄の統治に飽きたルシファーが、LAで高級クラブを営業しており、美人刑事の事件解決に手を貸すというお話。

 

ルシファーが「ボクは悪魔だ」といくら公言しても、誰も信じないのです(笑)。

ルシファー役の俳優(トム・エリス)が、もうこれ以上はまり役はないだろう、というくらいハマってます。

 

話し方とかもすごくインパクトがあるので、吹き替えよりも字幕をお薦めします。

ちなみに、ルシファーって「明けの明星」と言われますが、英語だと、そのまんまで Morningstar なんですね。。。ミスター・モーニングスター

 

さて、ドラマの中には、初回殺された女優が1週間に5回通っていたという、セラピストの先生が登場します(ドクター・リンダ・マーティン)。

 

そういえば「シャーロック」でも、アフガンで怪我をしたトラウマに苦しむジョン(ワトソン)は、セラピーに通っていて、治療のためにブログを書くことを勧められ、結局はシャーロックとの事件をブログに書いてそれが大好評、というのがありました。
ジョン・ワトソンは医者なので、この時「MDもセラピストのお世話になるのか」と、思った記憶があります。

 

海外では、セラピストにかかる、というのはドラマにでてくるくらいポピュラーなことみたいですね。

 

話は戻りますが、先のブログにも書きましたが、基本的に心理カウンセラーは、クライアントに触れません(海外では、挨拶とかはどうなのかは謎です。ご存知でしたら教えてください)。日本の精神科の先生も、患者さんには触れません。
聞いたところによると「セクハラ」を防ぐということもあるようです。

セクハラは「されたほうが」「やられた」と言えば成り立つこともあるので、そういうことなのか、と思います。

 

こうやって考えると、我々手技療法家は「触れる」という手段を持っており(最近は、触れなくても施術を行うことができます)、なおかつ操体は「心」に直結する「感覚」を重視していますので、身心の双方からアプローチが可能です。

 

なお、人間のセンサーはすごいものがあり、カンのいい人ならば、ちょっと触れられたたけでも、相手の情報を得る(あるいは、本人は得たくなくても得てしまう)ことができます。

 

皮膚は、ものすごい情報の宝庫ですが、触れ方をまちがえると、情報を隠して、見せてくれなくなります。

被験者本人に自覚がなくても「からだ」が、反応して「見せてくれない」ことも多々あります。

 

なので「触れること」に対しては、ますます修業を積む必要があると思った次第。

 

コンパチブルのコルベットをLAで乗り回すルシファー、一方こちらは立川のアパート(松田荘)で休暇をエンジョイしている神の子と悟った人。

劇中ではイエスがネトフリを視聴しているという設定なので、多分「ルシファー」見てると思います。ちなみに、「聖兄」に出てくるルシファーは、面倒見のいい兄貴分です。ハダカにベストという薄着ですが「魔族のオシャレは我慢から」というモットーがあるからだそうです。

 

そして、わすれちゃいけないのが「鬼灯の冷徹」のサタン様ですね。

こちらは超美形から、堕天してムキムキになったのですが、それもよしとしているようです。

 

 

 

 

本当の私よ こんにちは

昨日に引き続き、大嶋信頼さん(心理カウンセラー)の新著を読みました。

こちらは、かなり専門家向けです。

紹介されているのはFAP療法(Free from Anxiety Program)  Anxiety とは、不安のことです。医学的に  Anxiety disorder を、不安障害と言います。

 「指押し」を使った、心の傷の治療法初公開、です。

 

なお、当然ではありますが、こちらで紹介されているのは、初歩のものです。
また、心理カウンセラーは、クライアントに触りませんので、触れるのは、クライアント自身です。

アメリカ人は、難しいものを超簡略化して、プロトコル化(手順化)して、例えば頭蓋仙骨療法の、テン・ステップ・プロトコルとか作って、広めたりするのが好きですね。

つまり、誰がやってもそう外さない程度の安全なものにし(効果もそれなりに薄まる)て、広めるのです。

 

これは「広める」という手段においてはよい方法です。

操体法も「膝倒しとつま先上げとカエル足」(私達は、つま先上げとは言わず、足趾の背屈とか、伏臥足関節外転と言います。プロだからね)のような言い方で、「基本操体」パッケージになっていることがありますが、これもプロトコル化の一つです。

(橋本先生の「万病」には、操体AとかBとか、記号で名称がついており、動診と名称が結びつきにくかったので、愛称をつけたのです)

 

なので、この本の内容も、かなりプロトコル化されている、という前提で読むと、色々想像できます。

 

操体(第二分析以降の操体法)の習得に時間がかかるのは、仕方がありません。
プロトコル化できないからです。
たまに、渦状波で「どの症状にはどこに触ればいいのかを知りたい」という人が居ましたが(知りたい気持ちはわかる)、それがないのが、渦状波なのです。

 

しか~し、朗報と言えば朗報ですが、第五分析は、かなりのスピードで進化していますが、ある程度のプロトコル化が出来そうです(といっても、第二から第四までしっかり理解していれば、の話です)。

 

操体法の、第三分析、第四分析を学んでいる私達にとっては、また、鍼灸で経絡に詳しい方など、量子医学的なものに普段から慣れ親しんでいる方ならば、大いにヒントを得ることができるはずです。

 

また、足趾の操法や第三分析(渦状波)などを行っていると、手の指がピクピク動くなどという反応は、実践している方は日常的に見る風景だと思いますし、逃避反応をはじめ、からだの無意識の動きを診断分析材料にしている我々にとっては、今まで見逃していた情報を再利用できることにもなります。

 最初に「指押し??」と読んで、「TFTか??」と思った方もいるかもしれません。

TFTとは、手とかのある場所をタッピングするというものです。

私自身は、操体の「渦状波®」という最高に強力な臨床ツールを持っているので、TFTは「プロトコル化しすぎて薄まりすぎ」という印象がありました。

言うなれば、レイキと同じような印象です(私の場合、外気功を学んでいて「レイキは効かないから外気功を教えて欲しい」という人をわんさか見てしまったのも原因の一つです)。

 

 

FAPは、手をブラブラさせてなどとという色々な研究を積んでいくうちに、TFT創始者から「それはTFTじゃない」というクレームがつき、大枚をはらってなったTFTのインストラクターのポジションを捨てて、作られたものなんだそうです。

 

まとめです。

  • 第一分析の「基本操体」的なものや「般若身経」(クラシック)は、かなりプロトコル化され、それ故に結構広まっている
  • しかし、それは「薄まっている」ため、サークルや養生法、健康体操としては充分活用できる
  • 1980年代頃までは、現在とは環境が大きく異なっていたため(動かして壊したという状況が多数)、動かして治った(効果があった)
  • 現在は、40年前とは完全に環境が変わっている上、1990年代に精神疾患が多発したこともあり「動かして壊した」という状況が変わってきている
  • となると、楽な方に動かして瞬間的に脱力、という第一分析では限界が見えてきた
  • そこで「快」に三浦寛が着目し、第二分析を体系づけた
  • その後三浦寛が第三分析(皮膚へのアプローチ)を体系づけた
  • 第四分析(息診・息法)で、空間の認識を変えた(量子医学的)
  • 第五分析(操体の根底を変えるような変化)

 

 

こころの「ソーシャルディスタンス」

★補足★ SNSについて関連記事を見つけました。
国木田独歩の玄孫、モデルの国木田彩良さんのインタビュー記事ですが「SNSも、仕組みを理解して使う」という意見には賛成です。

forbesjapan.com

 

私も勿論、SNSとかやっていますが、基本的に「知ってる人」が範囲です。
今そこでやりとりをしているのは「心地いいパーソナルスペース」をあけられる人ばかりです。

 

そのあたりで面白いな、と思う事を挙げると、何かドジったとか、変なこと(大変なことではなく、変なこと)に巻き込まれたりした場合、私自身、本人は「自分のドジりや変なことをネタにして面白がっている」とか、私は臨床家なので、ケガしたりどこか痛めたりしても「新しいケーススタディである」とか「どうやったら治るか経過をみるか」みたいな「結構面白がって見ている」スタンスなのに「悲しいね」マークが付いたりすることなんです。

このあたりは研究の余地があるかもしれません。

 

コロナ禍で、生活が一気に変わり、人に合う回数が減り、その代わりにネット上でやり取りをすることが増えました。

 

こころのソーシャルディスタンスの守り方

こころのソーシャルディスタンスの守り方

  • 作者:大嶋信頼
  • 発売日: 2020/10/28
  • メディア: 単行本
 


そして起こっていることは「パーソナルスペース問題」です。

 

「過去と今の違いは「パーソナルスペースに侵入してくる人に出会う確率が手紙の時代と比べてはるかに高い!」ことだと思います。

 

私がネット上のバーチャルな人間関係に触れたのは、1990年代前半。まだ、mixiとかFBやLINEもない時代です。

 

当時は「メーリングリスト」というのがあり、共通の話題を持った人達が集まって、リスト投稿することで、情報交換をしていました。

 

携帯電話が一般化してきた時代で、二つ折り携帯の頃です。
よく「誰からも電話が来ないから、携帯なんて持ちたくない」とか「誰からもメールが来ないから、携帯なんて持ちたくない」という人もいたり(時代です)。

 

それなりに大変なこともありましたが、今のほうが大変かな。

 

 

FBもやっていますが、情報公開は、限られた人にしています。

 

というのは、いくつかきっかけがありました。
何かのご縁はあったんだけど、会ったことがない人から、いつも、即「いいね」がつくとか、そんな感じのことが、起こり、何だか変な感じがしたんですが、これが多分「パーソナルエリアへの侵入」です。

 

具体的に言うと、大嶋さんの本に書いてあるように「腰痛への対処法を長々と聞いてきて、結局はそれで終わり」とか。

また、あまりにもネガティブなこととか、正論しか言ってこないので、何だか疲れるとか。

ここでとった私の行動は、その人たちから距離をおく、ことでしたが、これが、この本に書いてある

 

自由に生きられるようになるためにもSNSやLINEの中で「あっ、この人はパーソナルスペースを侵入してくる人かも!」と見きわめて、こちら側が適切な距離をとる必要があるんです。

 ということかな。

(パーソナルスペース侵入云々というのは、心理療法の「外在化」というテクニックだそうです)

 

お互いに心地いいパーソナルスペースをあけられる友達や仲間に出会うことで、本来の自分に戻っていきます。

 

自分らしく生きる、というのは、なにも「自分」を主張することではなく、周囲の人と、ほどよいスタンスとバランスを保ちながら生きることなのではないでしょうか。