操体法大辞典

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つぶやくだけで心がスッキリする魔法の言葉(じゅもん)

つぶやくだけで心がスッキリする魔法の言葉 (王様文庫)

つぶやくだけで心がスッキリする魔法の言葉 (王様文庫)


タイトルをみただけでドン引きする人もいるかもしれない(笑)。
最小限必須責任生活(他者には代わってもらえぬ、自己責任に基づいた営み)「息食動想」の中で、操体は「想」、すなわち精神活動では「言葉」を重視する。言葉は運命のハンドルなのである。
私がよく言うことなのだが「明るく朗らかに生きましょう」という人に限って、明るく朗らかじじゃなかったりする。これは何故か。私の長年の疑問であった。また「世のため人のため」とか「人様を癒してさしあげたい」という言葉に、何だか胡散臭さを感じていたのも事実であった。
著者、はづき虹映氏は主に女性向けにスピリチュアルな本を書いているが、その根底に流れるものは、橋本敬三生の哲学に通じるものがある。
ポジティブ思考に"うさんくささ"を感じるのはなぜ?」という一節がある。それは、ポジティブが良くて、ネガティブが悪いという単純な二者択一の考え方だ。

ほ〜ら、二者択一という「相対的思考」ではなく「どちらも、ある」という「絶対的思考」になるでしょ。第一分析から第二分析への移行みたいなものなのです。物事には裏表、宇宙には陰陽があるのです。

陰陽思想で、陽が良くて陰が悪いとか、男が優れていて女が劣っている、そんなことはないのだ。
普通はどこかからだを悪くした場合「膝が痛いから膝が悪い」とか「股関節が曲がらないから股関節が悪い」とか「腰が痛いから腰が悪い」という見方をすることが多い。本当は、有難いからだからのサインなのである。膝が痛いと言うと、年のせいだとか、膝の関節がすり減っているとか言われることが多いが、もしかしたら、体重過多のせいかもしれない。どこかに症状疾患があらわれるということは、原因が存在ということなのだ。

今でも印象に残っていることがある。ある勉強会で、師匠が新しい理論を紹介した。日進月歩で進んでいる師匠は常に新たなことを思考し、検証しているのである。
それは「今までやってきた(教えてきた)事」を覆す内容だった。それを聞いて、ある人が「それじゃ、今までやってきたことは全部ムダになるんですか」と言った。会場は一時静まりかえった。地雷ワードである(笑)。同席していたある人は『背筋が凍りました』と言っていた。
典型的な二者択一的な考え方である。ムダになるかというと、ムダにはならない。私はある時、最初に習った第一分析と、連動操体系のものを手放した。手放したからといって、それがムダになるのではないことは、後によくわかった。手放したものは、第二分析、第三分析、第四分析に十分応用できるし、引き出しとして十分役にたっているのだ。

ネガティブな感情と仲良くなる三つのコツ。ネガティブな感情を「認める」。ネガティブな感情を「味わう」。ネガティブな感情を「手放す」。

さて、これからの時代に必要なのは、ネガティブ思考でもポジティブ思考でもない、第三の思考「ニュートラル思考」だと、私は考えています。「良いわるい」をつけない、自分を責めない、他人を裁かない、ネガティブを受け容れ、ポジティブを重視しすぎないことでもあります。ポジティブにもネガティブにも偏らない、バランスを大切にした、中庸なものの見方、考え方です。

子供の頃から「頑張る」という言葉がどうも馴染めなかったのだが、操体に出会って「私と同じ考えの人がいるんだ」と感動した記憶がある。操体の教えには「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」という「バルの戒め」がある。
はづき氏は「頑張る、必死、努力」のかわりに「一生懸命、夢中、熱中」という言葉を使おう、と言っている。いいではないか。この違いは「やらされている」「自ら進んでやっている」の違いだ。

「すみません」という言葉は「相済みません」という昔から伝わる言葉である。相手に対して失礼なことをしてしまったので、自分の心が澄み切らないということからきている。感謝の意を表す「すみません」もあるが、これは「何もお返しできず、すみません」からきているそうだ。気になるのは「すみません」を無意識に連発する人だ。クライアントでも「すみません」の連発がクセになっている方は、治りが遅いような気がする。言葉くらいで?と思うかもしれないが、橋本敬三先生のおっしゃるとおりで「言葉は運命のハンドル」であり、それは必ず実現する。

「すみません」と口にするのは、無意識に「私には価値がない」と言っているのと同じことです。いくらポジティブなエネルギーを周りに与えていても、入ってくるエネルギーを、すべて「すみません」でブロックしてしまっていては、せっかくのポジティブなエネルギーも循環させることができません。

電車で席を譲ってくれた方に「すみません」というよりも「ありがとうございます」と言った方がエネルギーが循環するのだ。「すみません」を無意識に使っていた場合は、意識的に言葉を「ありがとうございます」に変えてみるといいというアドバイスが載っている。これは賛成。言われる方も、イイコトをしたのに「すみません」と言われるよりは「ありがとうございます」と言われたほうが嬉しいではないか。
「すみません」を無意識のうちに連発していると「スミマセンな人」になる。私は何人も見ている。「すみません」と言わざるを得ない状況に陥ってしまうのである。

もうひとつ気になるのは「おつかれさま」と言う言葉だ。疲れてもいないのに「お疲れ」というのも何だか気になる。なので自分では余り使わないようにしている。そういえば、驚異的にラッキー体質の平直行さん(フォーラム相談役)からメールをいただく時は、いつも「こんにちは。平です」から始まっている。多分これも「Lucky」に繋がっているのではと思う。
なお「疲れた」というのは「憑かれた」にも通じるらしい。「あなたは何かに取り憑かれていますね」ということか(笑)。はづき氏は「お元気様です」を奨励しているが、これはまだ使うには至っていない。そういえば、師匠は講習から帰る受講生には「行ってらっしゃい」という言葉をかけている。

結構誤解されやすいのが「みんなちがって、みんないい」という言葉だ。「あるがまま」というのは、「誰もがそのまま状態で素晴らしい存在である」ということを認めることだが、「あるがまま」というのを「何もしない」ことの言い訳や逃げ道に使わない姿勢が大切だ、とはdき氏は書いている。これも全く同感だ。親鸞の「悪人正機説」にも通じるものがあると思う。
女性はあるがままで素顔がいい、という男性に「髪の毛は伸び放題で、服を着ないで、風呂にも入らなくてもいいのか」ときくと大抵は「それはイヤだ」という。髪の毛は整えて、風呂にも入って、洋服も着て、風呂にもはいってほしいが、化粧はしないでいい(大抵は『自分以外のオトコの前で化粧をするなという意味があると思う)」という、面白い反応もあるが「あるがまま」というのは「何もしない」ということではない。