2018年11月23日開催の東京操体フォーラム発表者からの「ひとこと」です。
【身体芸術と操体】
人間とういうものは、大人になるほど感覚を無視してしまう。
失われた感覚を復活させるのが、身体芸術だ。
この身体芸術は、魂の躍動、つまり全身体性である。
つまり、思考では表現できないものである。
【身体芸術として操体の出会い】
私が初めてそれが操体だと知った時、それはアートだった。
私が最初に出会った操体はただ触れるだけ。
そんなことでからだ状態が改善すると普通の人は思うだろうか?
しかし悲しいかな、嬉しいかな結果が出てしまった。
当日は操体との出会いについてお話ししたいと思います。
【「美」から「動」を捉えていく】
長年、人々を惹きつけてきた美しいと評されてきたものには必ず「動き」が関与し様々な形で表現されてきた。
絵画、彫刻、芸能、スポーツ。
いかなるジャンルにおいても人々は感覚を通してからだを使い美しさを表現してきたが、その美しさには決まった法則がある。
その法則を今回はアスリートのからだの使い方、動かし方から紐解いていきたい。
香(こう)(東京操体フォーラム実行委員 タスクフォース)
【美】
からだをみる方法は、問診・視診・触診・聴診・打診などが一般的です。
操体法では、からだを動かしてみる動診(どうしん)という方法があります。
「からだからのメッセージを動診で受け取る」身体が導く世界にご案内いたします。
【発声」という動きについて考える】
名著「快からのメッセージ」のある頁に、『発声も動きであり、連動し快に継がる』と書かれている。初めてこの一文に触れたときから、この問い掛けの中には臨床の可能性がぎっしりつまっているような、予感を抱き続けてきた。演奏活動を通して「発声」という営みについて模索してきた身として、この壮大なテーマに、微力ながらまずは半歩でも臨んでみたい。
瀧澤一寛(東京操体フォーラム副実行委員長 タスクフォース てまり堂)
【身体運動から身体芸術へ】
操体には、「からだがききわける感覚によってからだは変化する」という世界観があります。一人で行うセルフケアにせよ、操者が関与する臨床にせよ、そこでは操者と被検者、また両者のからだが「感覚」を通して互いにひびき合いながら、「操体的なからだ」へと変化していきます。健康維持増進に欠かせない「操体的なからだ」がどのように生み出されていくのか、そのプロセスに迫ってみたいと思います。
岡村郁生(東京操体フォーラム 賢人組 操快堂)
【生きるために死ぬ】
肉体に美しさを見出す意味とはなんだろう・・・。
男性である、女性である、ということはどういうことなのだろうか。
人種や年齢を推測するのに必要なのは、皮膚である。
からだを包み保護する覆いと、繊維製の付属(髪と爪)さえあれば、
お互いに求めるなら私たちは欲求の対象とみなすことができる。
そこにあり、目に見える表皮細胞はすべて死んでいるのに、
生きているとみなし、その存在を私たちは認識している。
古今東西、美の対象とされてきた本質へ問いかけてみたい。
畠山裕美(東京操体フォーラム 理事・事務局 TEI-ZAN操体医科学研究所
【スペインのセミナーレポートと、操体の作法と仏教の作法について】
10月18日から21日まで、スペインのマドリードにて操体のセミナーを開催予定である。
前半はマドリードのセミナーをレポートする。
後半は「操体的なからだの使い方、動かし方の作法と仏教の作法」。
昨年四月から今年の三月まで、東京国際仏教塾で、前期に仏教全般、後期に専門クラスで曹洞宗の寺院での修行に参加した。その体験を踏まえて、操体の作法を考察してみたい。
「人間の表現には、大別して3つあるという。言語表現、美術表現、音楽表現であり、それぞれの分野に芸術作品を残して来た。それらは、形を有する。
それとは別枠で身体表現というものがある。これは無形である。空間の中に消え去る。
操体は、身体表現そのものが臨床となっている芸術である。
身体芸術の観点から、時間の許すかぎり「操体」を論じてみたい。」