先日、ある方から「クライアントの体をみて、その歪みから操法を選べるようになりたい」という話を聞きました。
簡単に言えば「どの症状にどの操法をやればいいのか」ということです。
「歪みをみて、どの操法をやればいいか知りたい」。
が、そもそも、操体には「症状疾患別」という考え方がありません。
しかし、多くの方は「症状疾患別のやり方」を知りたがります。
当然と言えば当然かもしれませんが、操体ではそうは捉えません。
その辺りが「操体の常識は普通の非常識」ということなのでしょう。
さて、症状疾患別に捉えないとは、どういうことなのでしょうか。
よく「知っている動診操法を順番に片っ端からやる」とか、「プロトコル、手順式に決まっている順番でやる」という人もいますが、これも違います。
最初にひかがみ(膝窩)を触って、つま先を上げて落として、次に膝を左右に倒して、次にうつ伏せになってカエル足(我々は、足関節の外転とか、膝関節腋窩挙上といいます。カエルとはいいません)、最後は仰向けに戻ってかかと突き出し(我々は、カカト付き出しとはいいません。カカトを突き出して足関節が背屈して来る場合と、下肢全体を腰を介して押し込む場合は、連動が異なってくるから)、みたいなのを「基本操体」と言っている場合がありますが、
もしも、仰向けになれない人が来たらどうする?
もしも、うつ伏せになれない人が来たらどうする?
もしも、腰掛け位が取れない人が来たらどうする?
んでしょう。元気な健康体操教室の生徒さんならこんなことはないと思いますが、現場には、こんな人がたくさん来ます(我々はこういう人に対応しているのです)
「症状疾患にとらわれない」というのは、こういう時役に立つのです。
また「症状疾患にとらわれない」ということや「快適感覚と治癒」の関係は、そんなに簡単に頭に入ってくるものではありませんが、勉強(視診触診、型、作法、言葉の誘導など)をやっていると、パズルがはまるように、わかることがあります。
先日紹介した「お茶の稽古」みたいにです。
操体の勉強を「テクニック」とか「治療法」の学び方として捉えるよりも、「お茶」とか「作法の型」「生命哲学」として捉えたほうがなんとなくしっくりきます。
というか、操体を「テクニック」として捉えるのは、あまりにもつまらない。私はそう思います。
「う~ん。自分は何をやってるんだろう」と、修行中(特に介助補助、言葉の誘導などを勉強している時)は思うのです。
「これがなんの役にたつのかな??」みたいな。
しかし、
ある時、ぽこっとはまるのです。
(ここまで来るには、ある程度の勉強が必要です。そんなに簡単にははまりません笑)
あ、自分がやっていたのは、臨床という大きな流れの中の一部分だったんだなと。
この「ピースがはまる」という体験は、もの凄い快感です。
そうすると「あ、症状疾患にとらわれないって、こういうことなんだ」とわかります。
そうすると「この症状は操体に効きますか」とか「この歪みにはどんな操法がいいですか」という質問は、なくてもいいんだとういことに、納得します。
私の周囲をみても、操体を長年やっているという同志達は、この経験をしています。
逆に言うと、この経験があるからこそ、操体の勉強が面白いのです。
しかし、何もそんなに「悟る」ような領域まで行かなくても「操体って何だかおもしろうそうだからやってみよう」という「初学者の一歩」も大事です。
何事も「最初の一歩」からですから。
そんな人達のための「最初の一歩」を用意しました。
最初の一歩です。
何だかわかんないけど、面白そう。それでもいいんですよ。