こんにちは。TEI-ZAN操体医科学研究所の畠山裕美です。
昨日春季東京操体フォーラムが無事終了致しました。
ご参加の皆様には深く御礼申し上げます。
個人的には瀧澤さんの発表、小学校1年のお子さんの鼻の骨の骨折に関する発表(操体の真骨頂)は、橋本先生の「マストから落ちた男」並みに凄いなと思いました。
症例発表としても素晴らしいものだと思います。
操体で「スーパー治癒力」が発動したすごい症例です。
なお、秋のフォーラムは11月23日に開催致します。
私自身は、相変わらず「楽と快の違い」について触れましたが、参加者からの質問や反応から察すると、
・本来最初に「型」(般若身経とか)を学ぶべき時に、「きもちよさ」という先入観があるので、なんだかおかしくなるのでは
と感じています。
型を覚えるのだから、この時は「型」を覚えることに集中すればいいのですが、その際に「きもちのよさ」という言葉に執着するから、おかしくなるのです。
まず、身体運動の法則(般若身経)の型をしっかり覚えてから(本をみてもわかりにくと思います)
「感覚」の分野に入りますが、最初は「楽か辛いか」でいいんです。
最初から「きもちのよさ」は早いのです。
勿論、早く到達したいのはわかりますが、まずは「型」です。
そして「快(きもちよさ)」に執着しないこと。
快がききわけられないこともあること。
操体では「からだ」が主語なので、「きもちよさが出てくる」という言い方はしないこと。
また、操体と他の療法の違いですが、他の療法は「治療者」と「患者」の二つが存在します。リードするのは治療者です。
なお、操体は「患者、操者、からだ」という三つが存在します。
なぜなら「患者本人(エゴ)」と「からだ」の要求は異なることがあり、臨床は「からだの声」に従ったほうが、うまく行くからです。
「患者本人」は「回数をたくさんやったほうが早く治るんじゃないか」とか「左右均等にやった方がいいんじゃないか」と損得や正しい・正しくないというモノサシで考えますが、「からだ」は治癒に繋がる答えを「快不快」で教えてくれるからです。
橋本敬三先生の本の扉に「快を探る」という一文がありますが、
これは「快の本質を探究する」という意味で、
「きもちよさを探して色々動いてみる」というわけではありません。
これは、操体をよく知らない人が勘違いしやすいので、指導者はかなり気をつける必要があります。
指導者が「やりやすい方に動かして、一番きもちがいいところで動きをたわめて」というような指導をすることがありますが
やりやすい方が、突然『一番きもちがいいところ』に変わるわけがない、と指導者はちゃんと認識すべきです。
このような指導をするから「楽な動きを選択した」「当然『きもちよさ』はききわけられない」しかし、「一番きもちがいいところ」と、指導者が誤った指導をするから
「きもちよさを探す」になるのです。
最近の「きもちよさを探してしまう」問題は、やはり操体指導者の無知に問題があります。
「色々なやり方があっていい」という問題ではなく、橋本敬三先生ご自身が「楽と快は違う」と、おっしゃっているのですから、楽と快を混同(楽な方にきもちよく)という、被験者や操体に興味がある人を迷わせるようなことを言うのは、無責任ではとつくづく思います。
なお「きもちよさ」という言葉が持つ大きなエネルギーとインパクトについては、今、文章にまとめています。
この言葉は、諸刃の剣とも言うべき、力があります。
操体実践者は「きもちのよさ」という言葉の使い方に関しては、細心の注意を払う必要があります。
それが「操体ってなんだかわからない」とか「操体で言うきもちよさってわからない」とか「さがしてもわからない」という誤解が起こらないようにするための方法であり、操体が21世紀、22世紀と受け継がれ、自然法則の応用貢献が成るための方法です。
どうか、操体実践者の方や、指導者の方。
操体を「よくわからない」ものにしないために「楽と快の違い」は、明確にしてから指導をお願い致します。