なぜ、操者が必要なのか
前回のフォーラムでは、第一分析と第二分析のデモンストレーションを行った。第一分析を否定するわけではないし、
どうしても感覚のききわけが出来ないクライアントに対しては「痛いか痛くないか」という分析を行うこともある。しかし、基本的には第二分析以降をメインとしている私達実行委員と、第一分析しか知らない一般参加者の間には確かに温度差があった。
ある参加者(一般の方で、臨床家ではない)は、専門家ではないから、楽な方に動かして、瞬間脱力でもいい、と言われていたが、何故、からだが食べたい(味わいたい)快適感覚を食べずに、「楽」を味わってしまうのだろう、と感じた。
もったいないことではあるが、本人(のアタマ)が「楽」を食べたがっているのだから、仕方ないのだろうか。
また、その方が言うには、「操体は1人でできるから、操者はいなくてもいい」という発言もあった。
なるほど。
やはり一つ覚えていることがある。昔ある受講生に「操体って一言で言ったら何て言う?」と聞いたところ「自分で動く」という答えが返ってきた。勿論答えになっていないのであるが(この方が成長して今はそう思っていないことを祈るばかりである)。
自力自療の意味について、色々なところで述べてきたが、1人でやるから、自分で動くから自力自療ではないのである。
操体は何故治癒力が増して、よくなるのかと言えば、本人にしかわからない感覚、それも快適感覚をききわけ、味わうという
過程があるのだが、「本人にしかわからない」感覚を相手にするから、「自力自療」なのである。なので、1人でからだの手入れを
しようが、操者が存在しようが、フィットネスクラブなどで、インストラクターの指示に従ってやろうが、自力自療なのである。
このあたりは間違ってはならない。
また、橋本敬三医師ご自身「1人操体」とか「2人操体」という言葉は残しておられないし、般若身経を指して「操体の基本運動」とは言われたが、「基本操体」とはいっておられない。
いつからか(私も昔はそう思っていたのだが)、膝の左右傾倒、足関節の背屈、伏臥膝関節腋窩挙上、下肢全体の押し込みなどを称して「基本操体」と言っているのである。
これは様々な意見があろうが、私は、橋本敬三医師の直弟子である師匠に習ったので、そのように考えている。
(無理強いするものではない)
さて、そうしてみると、「操体は自分でできるから、操者なんていらない」という意見はどうするか。
その前に、橋本敬三医師について考えてみよう。橋本敬三医師は、その通り、医師である。お医者さんで
患者様を診て、生計を立てておられたわけで、勿論診療報酬をいただいていたのである。
つまり、健康の度合いが80%(まあまあいい)の方だったら、自分でからだの手入れをすればよい。
健康な人が病気にならないための、「健康維持増進医学」としての操体本来の役目に叶う。
しかし、健康の度合いが低く、その人自身では、どうにもならない場合はどうするのか。このような時が、我々
専門家の出番なのである。
自力自療がかなえられない人、自力自療では間に合わない人達のために、プロが存在する。
そのような、自力自療が叶えられない方に対して、自力自療を促してあげられるような指導、サポート
のエキスパートが必要なのである。
つまり、自力自療を指導しながら、からだが喜ぶことを指導する。
逆に言えば、「ヘタクソな操者だったら、いないほうがマシ」なのである(これは本当)。