なんだか仏教がらみの話ばかりになるが、たまたま「悟り」という言葉をみて、思い出したコトを書いておこう。
私自身、実際に千日回峰業やその他にも命をかけた荒行をなさった大阿闍梨にお会いし、すごいことをやり遂げた人の、何か吹っ切れた明るさというか、そういうことに接する機会があった。それは、単にめちゃくちゃポジティブというのでもない。
やり遂げた人の淡々とした姿。
それなんだな。
本当に悟った人は、「私は悟った」なんてそう簡単には言わないのだ。
その昔、私は「自分は悟った」という、在家の坊さんが主宰する太極拳の教室にいっていた。
よくある話だが、女性のファンがついていて、ちょっと間違えたらカルトだが、いかんせん、カルトと違ってお金を集めるのが下手なところだった。
悟ったという在家の坊さんは、私に
「操体は難しいからオンナにはできるわけがない」
「所詮あんたなんか、地方のホテルのマッサージが関の山だ」
と言った。★この方はマッサージ師の免許を持っていた★
この「悟った人」からの屈辱的な言葉が、私を奮い立たせたと言ってもいいかもしれない。
っていうか、悟った人がこういうことを言うか??
その後、外気功を習ったオッサンは、逆に「生きる欲」に満ちていた。
仙人に会いに台湾に行ったり、怪しい仏像を並べていたり、「あやしい」を絵に描いたようなオッサンだったが、「自分は悟った」と言って「操体は難しいからオンナにはできるわけがない」とか、そういうヘンな決めつけはしなかった。
「ゴーヤ食べるとさぁ、精力がついちゃって困るんだよ」という話を振ってくるオッサンのほうが、余程悟っていたのではないか。
このオッサンのほうが、自然体だった(笑)
本当に悟った人は、自分で軽々しく「悟った」とかは言わないものだ。