操体法大辞典

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講習レポート(続き)「きもちよさ」はききわけるもの

「きもちのよさがありますか?からだにききわけて」



という問いかけがある。

これはこれでいいのだが、



いきなり「きもちのよさがありますか?」と初診の方に聞いても

「?????」となる場合がある。



最近では



「ゆっくりと、からだのツクリを操って、きもちのよさがききわけられたら、教えて下さい」



のほうがベターなのではないかと思うようになった。



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たまに、講習(外部でも自分のところでも)で、

『きもちよさが出てきそうだ』とか「きもちよさがでてこない」という発言を聞くことがある。



ニュアンス的には、「きもちよさ」というものが、どこからか飛来してくるか、自分の中から湧いてくるようなイメージがある。



また、でてきそう、というのは、本人が作為的にきもちよさを探して(きもちよさは探るものではない。何故なら無意識が関連しているから)色々動かしているようで、しっくりこない。

また、そのような表現をされる方をみると、どうしても、意識的に色々うごいて試しているように見えてならない。



コトバで書くとまどろっこしいが、

きもちのよさが「でてきそう」「でてくる」というのは、どうも本人の意識が働いている感じ。

「ききわけられる」というのは、からだがききわけている感じ。



さらに補足するなら、操体の動診では感覚のききわけを行っているわけだから、やはり「でてくる」というのはおかしい。

(感覚はでてくるものだろうか?感覚は感じる、ききわけるものではなかろうか。まあ、痛みが出るとか、しびれが出るとか、不快感には「でてくる」という表現もありそうだが、快適感覚は出てくる、というのだろうか。これはちょっと難しい)



いずれにせよ、

きもちよさはききわけるものなのだ。